最後の審判( Last Judgement 公審判 , 主の日 )とは? 裁き主 , 審判者 イエズス・キリストの再臨とは? そのしるしとは? 峻厳を極める裁きとはどのようなものか?

神の「最後の審判」をあなどってはならない
─ それは、峻厳を極める

黄金伝説 第一【 主の降誕と再臨 】 より抜粋 ≫


 アドヴェント:ラテン語“Adventus ”は、「到着、来臨」の意で、聖主の現世への来臨、ご降誕を待望し、準備する四週間の期節のこと 「待降節」 とも言われます。
 現行教会暦では、使徒聖アンデレの祝日(11月30日)に最も近い主日(日曜日)からはじまり、最も早い年の場合は、11月27日,最もおそい年の場合は、12月3日にはじまります。

 ※教会典礼暦の一年が、はじまる日となっている。

 ※四週間とは、聖主の四つのご降臨をあらわしている。

 第一の降臨は、聖主がわれわれ人類の地上に到来されたこと、

 第二の降臨は、聖主が恩寵とともに人間の心の中に到来されたこと、

 第三の降臨は、聖主がわれわれの霊魂(黄泉)の死の中へ到来されたこと、

 第四の降臨は、聖主が最後の審判(主の日)に再臨されるということ、



 最後の審判を 「 公審判 」 とも言います。
 この世の終末の日に全人類が、霊魂に完全な肉体を伴ってよみがり、受ける審判のこと
 裁き主(裁判官)は、その死をもって人類の罪をあがなった救世主イエズス・キリストであり、サタンが告発者:原告・検察側となります。

 また、待降節第1の主日の最初の答誦 『 グロリア・パトリ
 には、この四つの降臨をあらわす四つの小句が唱えられます。 特に、キリスト教会が重視するのは、次の二つにしぼられます。
 聖主の人類への 降臨 「ご託身」「最後の審判」 への再臨 です。

 この期節の教会聖務も二つのかたどりに従い、待降節の斎食(断食)は、キリストの「ご託身」のゆえに歓喜の斎食と、「最後の審判」のゆえに悲嘆の斎食と言われます。


  キリストの受肉(託身)の三つの要点

  第一は、真に時宜にかなっていたこと、

  第二は、どうしても必要であったこと、

  第三は、無限の功徳があったこと、


 第一について、もともと自然の法則にしたがって生きていた人間は、まもなくまことの神の認識を欠いていることに気づき、偶像崇拝の迷いに陥って、

 「主よ、わたしの眼を明らかにしてください」(詩篇13:3)

と、叫ばなくてはならなくなりました。律法が与えられ人間に命令を課したが、人間は弱さを悟りました。 かつては、

 「聴きしたがう者はいます。命令するかたは、どこにおられるのですか」

 と、叫んだが、今では、

 「命令を課すものはありますが、聴き従う者がいないのです」

 こうして、人間を罪から解放し、恩寵によって善へ導く神のひとり子が、最もふさわしい時期に、人間の弱さと無知とに気づいた時に降臨されました。

 「時の満ちるにおよんで」(ガラテヤ4:4)

 と、書かれてあるようにキリストの受肉は、ちょうどよい時に起こりました。

 聖アウグスティヌスは、

 「多くの人びとは、キリストがなぜもっと早く降臨されなかったのかと言う。あらゆる時をお定めになるおん者のご意志により時がまだ、満ちていなかった。時満ちてキリストが降臨され、われわれを時から解放された。そして、われわれは時のない永遠のなかに歩み入るであろう」

 と、書かれました。

 第二について、人類の重大な傷と病いにとってもっともふさわしい時期に降臨されました。人間の病いは、偉大な医師を必要としていまいした。

 聖アウグスティヌスは、

 「全世界が重病人であった時に、偉大な医師が到来された」

 と、書かれました。キリストのご託身以前の人間は、無知,盲目のため教師を必要としていた。永劫の罰から救いの手を必要としていました。悪魔の奴隷から解放する者を待ち望んでいました。罪深い習慣の呪縛,祖国から追放され、暗闇の中にとじこめられ、救い出してくれる人を必要としていました。



アドヴェントの典礼歌 ( 交誦 )

 第一の交誦
 「おお、いと高き者の口から流れでた智よ、来たりてわたしたちに智の道をお教えください」―しかし、教えを受けても、奴隷の身分から請けもどされなければ、なんの役にたつだろうか。

 第二の交論
 「おお、アドナイ(わが主)よ、イスラエルの王よ、手をさしのべわたしたちを奴隷の身から請けもどしてください」―しかし、奴隷の身から請けもどされてなおも牢獄(黄泉)に住みつづけるならば、なんの役にたつだろうか。

 第三の交誦
 「おお、エッサイの根よ、来たりてわたしたちを解放し、いつまでも待たせないでください」―しかし、牢獄(黄泉)から解放されても、なお手足に鎖を引きずり、力と自由をまだもっていなければ、なんの役にたつだろうか。
 エッサイは、ダビデ王の父の名前、一度切れたダビデ王朝の血統をあらわし、この根がイエズスによってふたたび芽ぶくこと。

 第四の交諭
 「ダビデの鍵よ、来たりて、暗闇と死の影の中に囚われているわたしたちを牢獄の扉の外に連れ出してください」―しかし、ながく牢獄にいた者の眼は、にごり、よく見えないから、囚われの身から解放されても、道がはっきり見える眼を持つための光に照らされなければ、なんの役にたつだろうか。

 第五の交誦
 「永遠なる光の立ちのぼる輝きよ、来たりて、暗闇と死の影のなかにいるわたしたちを照らしてください」―しかし、光に照らされていても、われわれの魂が救済されなければ、これらすべてのこともなんの役にたつだろうか。

 第六、第七の交誦
 「おお、すべての民の王よ、来たりて、あなたが土からおつくりになった人間を救ってください」
 「おお、インマヌエルよ、来たりて、わたしたちを守ってください、主なるわれらの神よ」―それゆえ、異邦人の救済を祈り、神が律法をおさずけになったユダヤ人たちの救済を祈願する。


  主 (救世主として) の最初の降臨

 『ルカによる聖福音書』 のなかで、七つの功徳のために降臨された と語っています。
 「主(神)の聖霊がわたしに宿っている」(4:18) と語りはじめ、

 1.貧しい人々を慰め、

 2.悲しめる人々をを癒し、

 3.囚われている人々を解放し、

 4.知の暗い人々を照らし、

 5.罪人を浄め、

 6.全人類を救済し、

 7.あらゆる功徳にむくいるためにつかわされた

 と、言っておられます。


 聖アウグスティヌスは、キリストご降臨に三つの功徳をあげています。

 「われわれ悪しき現世、世界の国の商品は、生まれること、働くこと、死ぬこと以外にはなにもない。神は、これらの商品を買い取るためにわれわれのところに降臨された。そして、キリストは、人間からこの地上にありあまっている「生まれること」と「働くこと」と「死ぬこと」をわが身に引き受け、「再生すること」と「死からよみがえること」と「永遠の楽園(パラダイス)に住むこと」とを与えられた。「天国の商人であるキリストは、恥辱(罪)をあがない、永遠の栄光を与えるために、死を受けとり、永遠の生命を与えるために降臨された」。


 聖ベルナルドゥスも、三つの功徳をあげています。

 「われわれは、三つの大きな病気にいたましく苦しんでいる。誘惑に負けやすく、実行する力が弱く、抵抗力に乏しい。善と悪とを区別しようと思ってもすぐにだまされてしまうし、善行をなそうとしても弱腰になり、悪に抵抗しようと思っても簡単に負けてしまう。そこで、主が降臨されて、<信仰>によってわれわれを照らし、<恩寵>によってわれわれを力づけ、その<力>によってわれわれを庇護されたのである」



  主の第二の降臨、最後の審判【再臨】について、二つの要点

  第一は、再臨に先だつもの

  第二は、再臨にともなうもの



   再臨に先だつものは、三つあります。

  1.怖ろしいしるし
  2.反キリストの奇跡
  3.劫火



  1.最後の審判に先だつ怖ろしいしるし

 「そして、日と月と星にしるしが現われ、地上では国々の民が悩み、海と大波のとどろきに恐怖する」(ルカ聖福音書21:25)
 の五つあります。 最初の三つのしるしについては、
 「太陽は荒い毛の布のように黒くなり、月は全面血のようになった。天の星はいちじくの木が大風にゆらいで青い実を落とすように、地に落ちた」(聖ヨハネの黙示録6:12)
 と、書かれています。

  第一のしるし、太陽
  第二のしるし、月
  第三のしるし、星


 被造物の長である人間の終焉を悲しんで太陽が光を失う。
 また、太陽がいま立ちのぼって来るもうひとつの太陽イエズス・キリストのために暗くなります。 比喰的には、太陽が暗くなるとは、聖アウグスティヌスの言葉を借りると、
 「公審判が峻厳を極め、太陽でさえ主の顔を見る勇気がない」
 もうひとつは、
 「だれひとりあえて信仰告白しようとしないのでキリストの正義の太陽が暗くなる」
 と、いう意味をもちます。

 ここで、 「天」 は、天空のことであり、 「星」 は、星に似ている流星のことを示します。

 流星が流れる時、俗に 「星が天から落ちる」 と言う表現を用います。 流星は、そのころには、とりわけ多くなるだろう。
 というのは、火のような物質(宇宙塵・流星群)が、過剰になるからで、主が罪人たちをおどろかせるためにそうされます。 また、 「星が落ちる」 というのは、その燃えさかる光芒を失うことや比喩的には、教会の星と思われていた多くの聖職者,神学者たちが最後の審判の日を迎える前に、堕天使が、天界から地獄に落とされたごとく失墜する ことを意味しているとされます。


 第四のしるし、地上の不安
 「そのときには世のはじめから今までにもなく、後にもないほどの大艱難が起こる」 

 (マテオの聖福音24:21)と書かれています。

 第五のしるし、海と大波のとどろき
 大音響とともに消えうせる海の壊滅のことを示す と、ある人々が言っています。

 「そして、海もなくなってしまった」(聖ヨハネの黙示録21:1)
 とあります。


 また、ある人々は、
 「海が大音響とともにすべての山々よりも40キュビト(180m)も高くせり上がり、そして、引いていくそのとどろきだ」
 と、言います。(1キュビト45cm:津波)


 聖グレゴリウスは、
 「海とその流れに新たな前代未聞の混乱が起こる」
 ことだと言います。


 聖ヒエロニムスは、 『へブル人年代記』 のなかで、最後の審判の15の前兆について書いています。 しかし、それらの前兆が連続か、間隔をおいてか、一気にたたみ掛けるように起こるのか、順序通りなのか、ランダムなのか、何も語っていません。

 第1のしるし、海がすべての山々よりも40 キュビトも高くせりあがり、城壁のように立ちはだかる。:大天罰のこと、 「ワームウッド彗星=救いの球」 の海洋落下による大津波

 第2のしるし、海は沈降しほとんど見えなくなる。:海洋にクレーター と 熱い水蒸気

 第3のしるし、海の怪獣たちが姿をあらわし、天にむかって吠えたてる。 その声は、神のほかだれにも理解できない。

 第4のしるし、海水とすべての水が燃えあがる。:ワームウッド彗星の地球激突 “ 火による大天罰 ”

 第5のしるし、すべての草木が血の色をした露にぬれ、空のすべての鳥たちが、種類ごとに地上に集まり、峻厳な裁き主 到来を怖れて、餌も食べず水も飲まない。

 第6のしるし、すべての都市と建物が倒壊し、日没から日の出まで天空の顔めがけて燃えるような稲妻がかける。:サタンの最後

 第7のしるし、石がたがいにぶつかりあい、割れ、それぞれ四つにくだけて、こすれあう。 その音を理解するのは、神のみです。

 第8のしるし、大地震が起こり、人間も動物も地面に倒れて、だれひとり立っていることができない。

 第9のしるし、すべての陸地が平らになり、すべての山も丘もこなごなになる。

 第10のしるし、人びとは逃げこんでいた穴から出てくるが、正気を失ったかのようにたがいに言葉をかわすこともできない。

 第11のしるし、死者たちの骸骨がよみがえり、墓のうえに立つ。 すべての墓穴は、死者たちが出られるように日の出から日没までのあいだ口を開けている。

 第12のしるし、星が天から落ち、遊星も恒星もすべてその燃える光芒を失う。 そして、火の雨が降る。 また、この日、野のすべての動物たちが集まって吠えたて、餌も食べず水も飲まない。

 第13のしるし、死者たちとともによみがえるために生きている者も死ぬ。

 第14のしるし、天と地が燃えあがる。

 第15のしるし、新しい天と地が生じ、すべての人間がよみがえる。



  2.最後の審判に先だつ反キリストの奇跡

 最後の審判に先だつ反キリストの奇跡とは、人類を惑わす奇跡的マジックのことです。 反キリストには、人間をあざむく四つの方法があります。

 第一の方法
 反キリストが人間にあたえる狭滑な忠告と教えであり、自分が旧約の掟 (モーセ五書:律法) に約束された真の救世主 ( メシア=ロード・マイトレーヤ=弥勒菩薩=大日如来 ) だということを聖書から証明するためにキリストの教えを否定して自説を立て偽りの聖書解釈をします。

 ダビデは、
 「主よ、あなたは、べつの律法をあたえる者を彼らにあたえるでしょう」
 (詩篇)と歌い、ダニエルは、
 「彼の命令によって、武装した軍勢が聖所、城壁を汚しに立ち、日々のいけにえを廃し、そこに荒廃のいとわしいものを立てる」
 (ダニエル書 11:31)
 と書いています。 注解書は、 「これは反キリスト、よこしまな律法の立法者のこと。 主の律法を抹殺するため自らを神として神の宮にすわるだろう」
 と、書かれています。 同ダニエル書の↓下記の預言の言葉と、混同しては、なりません。 内容は、全く違い、下記は、メシアについて書かれています。 つまり、反キリストは、メシア(救世主キリスト)の真似をし、選民(ユダヤ人・キリスト教徒)をも惑わします。 以下の訳文の赤文字は、日本語聖書には、翻訳されていない、自分が個人的に意訳し、預言をわかり易い文章にするために追加したセンテンスです。


 「それゆえ、知り、悟れ。 エルサレムを建て直せ との命令が出てから、メシアである君主 油注がれし者=救世主イエズス・キリスト までが、7週と62週あります。 その間、困難な時を経て、広場と石垣は建て直されます。 その 62週の後に、 つまり、終わりの70週目である最後の一週のとき≪ ※本来は、ここに挿入されるべきセンテンス訳文:君主・メシア・油注がれし者・救世主 = イエズス・キリスト は、一週 残された最後の7日=7年 のあいだ、多くの者と 新しい 契約 ( ミサ聖祭 キリストの福音 ) を堅く結び、週のなかば の3年半公生涯・福音伝道期間のあいだに、犠牲と捧げ物(旧約の儀式・律法)をやめさせます。 メシアは、断たれ 十字架刑に架けられ取り去られ るが、それは、自分のためではありません。
 やがてくる君主(暴君:この場合、アンティオコ・エピファネと、D.C. 70年のエルサレム滅亡 ローマ帝国の皇帝と、やがて来る反キリストの3重の預言がこめられている)の民が、町と聖所を破壊します。 その終わりは、洪水のように来て、戦いの終わるまで、荒廃が定められています。

 ※↑ 彼(メシア)は、一週( 残された最後の7日=7年 )のあいだ、多くの者と契約を堅く結び( 新しい契約=ミサ聖祭 )、週のなかば(3年半=公生涯、福音伝道期間)に犠牲と捧げ物(旧約の儀式・律法)をやめさせます。 ( : 翻訳的に、ここでは、意味が通らない日本語聖書の訳文 )

 そして、荒らす者の憎むべきものが 翼(つばさ=エルサレム、 訳注:七十人訳では、 「神殿に」 ) に現れます。
 ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかります。」
 (ダニエル書 9:25〜27)



 第二の方法
 反キリストがおこなう偽りのしるしと奇跡によります。

 聖パウロは、
 「悪の者はサタンの力に従って現われ、力としるしと偽りの不思議をすべておこない、また救いに至る真理への愛を受けなかった滅びる者のために、不義の惑わしをするであろう」
 (テサロニケ人への第二の手紙2:9)

 と、書かれています。

 「また、人びとのまえで天から地に火を降らせるほどの大いなる不思議を行ない、先の獣に奉仕するために行ったこの不思議な業によって地に住む人々を惑わし、」
 (聖ヨハネの黙示録13:13)

 と、書かれています。  注解書は、 「聖霊が、火の姿をとって使徒たちに与えられたように反キリストも、悪霊を火の姿に変えて与えるであろう」 と、書かれているます。


 第三の方法
 反キリストが、味方に大きな贈物を与えます。

 ダニエルは、
 「異国の神の助けをかりて、要塞に向かって事をあげ、自分を認める者に名誉を与え、彼らを人の上に立てて支配させ、国を分配してそれに報いる」
 (ダニエル書11:39)

 と、書いています。 注解書は、 「反キリストのぺてんに引っかかった者たちに贈物を与え、反キリストに従った軍勢には、土地を分け与えるであろう」 とあります。 武力で征服できない人々には、物欲で籠略します。



 第四の方法
 反キリストが人間たちにくわえる大きな艱難。

 ダニエルは、
 「彼は、いまだかつてないほどの破壊を行ない、事ごとに成功し、力ある者を打ち破り、聖徒の民を打ち破る」
 (ダニエル書8:24)

 と、書いています。また、聖グレゴリウスは、
 「彼は、強い者たちを殺す。 というのは、不屈の精神をもっ人たちからは、その肉体をうばおうとするからである」
 と、言っています。



  3.最後の審判に先だつ劫火

    神が火をおくられる理由は、

 第一 世界を新しくするため、火は、すべ ての元素を浄め、新しくしてくれる。 ノアの洪水のように、火は高く燃えあがり、すべての山々よりも15キュビトも高く燃えさかります。
 「かつて人間の仕事が達したとおなじ高さまで燃えあがる」
 と、 『 聖書物語 』 には、書かれています。

 第二 人間を浄化するため、火は、生きている人間たちにとって浄罪の火となります。

 第三 地獄に落ちた人びとへの一層大きな火の拷苦となるようにおくられます。

 第四 聖人たちの栄光を讃えるために送られます。


 聖バシレイオスは、
 「神は、世界を浄化し終えると火を光輝と炎熱とに分解し、炎熱で悪人たちを苦しめるために地獄に送られ、光輝で至福の人びとの喜びを一層増すよう天国に送られます」
 と、書いています。 これらの後に最後の審判がつづきます。



再臨にともなうもの 最後の審判 ≪ 公審判 ≫ 非常に重要!

第一 ≪ 審判者 ( 裁き主 ) の審問 ≫

 ヨシャパテの谷でおこなわれ、そこに裁き主があらわれて、悪人と善人とを判別し、義しき人びとを右手に、悪しき人びとを左手におき、みずからはだれからも見えるように高い御座につかれます。
 この谷に全人類を集めることは、無理だと考えては、なりません。 ヨザファト=ヘブル語で
 「 主は、裁きたもうた,神が裁く 」
 の意味です。
 万国の民が、メシアの審判を受けるとされる裁きの谷 ( ヨエルの預言 4:2,12 )。
 イエルサレムとオリーブ山 (橄欖山) とのあいだにあるキデロン ( ケドロン ) の谷と同一視されます。

 主は、よこしまな人びとに彼らがなさなかった慈悲の行為についてたずねられます。彼らのだれひとりとして、わが身の罪深さを思って泣かぬ者はいないだろう。

 聖ヨハネス・クリュゾストモスは、
 「ユダヤ教徒たちは、十字架にかかって死んだと思っていたナザレのイエズスが、生きて人びとに生命を与るのを見て泣き、われらの聖主の開いた傷口を見て自分たちの罪を隠し通せない事を悟ります。
 異教徒たちは、世俗の哲学者の言葉に惑わされて、十字架にかけられた神人イエズス・キリストを信じるのは、ばかげたことだと思って鼻先であしらい真摯に受け止めず、信じようとしなかったことが、真実であるのを見て泣きます。
 キリスト教徒のなかの罪人たちは、神であるイエズス・キリストを愛するよりも世俗を愛した自分自身を省みて泣きます。
 異端者たちは、真の神の冠をいただいている聖主を単なる人間、神の霊に満たされた預言者のひとりと思い誤ったことを省みて泣きます。
 すべての人びとは、聖主に逆らう気力すらなく、面前から逃れる道も、悔俊 ( 回心・懺悔 ) する場所も、心を入れかえる ( 改心する ) 暇もないゆえにもはや進退きわまり、ひたすら泣くほかありません。」
 ( マタイによる聖福音書 25:31〜46 などの釈義 ) と、言っています。


第二 人びとが受ける判決の区分(選別)

 聖グレゴリウスは、
 「最後の審判において人びとは四分されます。善人たちと、悪人たちとが、それぞれふたつに分けられます。悪人たちの一部は、判決文を言いわたされて罰せられます。主は、彼らに向かって、
 『 わたしが空腹であったのに、あなたがたは、わたしに食物をあたえなかった 』
 と、言われるでしょう。 悪人たちの他の者たちは、判決なしに罰せられます。彼らは、不信仰な人びとであり、
 『 信じない者は、その不信仰においてすでに罪に定められています 』
 (マルコの聖福音書 6:16) とあります。
 信仰の言葉を無視したのだから、判決の言葉を聞くにあたいしません。
 善人たちの一部は、判決の言葉によって天国に入ることを許されます。主は、彼らにむかって、
 『 わたしが空腹であったとき、あなたがたは、わたしに食物をあたえた 』
 と、言われるでしょう。善人たちの他の者たちは、みずから判決をくだして天国に入ることを許されます。彼らは、完全無欠な人びとであり、他の人びとの裁きに立ち会いますが、判決をくだすわけではありません。裁き主が、判決をくだされるとき、彼らの大きな栄誉のために裁き主のかたわらでともに裁きに立ち会います。聖主イエズスは、
 『 あなたがたも、裁くがわの席につくであろう 』 ( マテオの聖福音書 )
 と、言って約束されました。このことは、陪審員が、判決文を確認し署名するように彼らは、裁き主の判決を確認します
 ― 『すでにしるされた裁きをおこなう。すべて信心ある人にとって、光栄あることである 』 ( 詩篇149:9 )と、歌われています。
 これはまた、悪人たちを永劫に罰するためであり、善人たちの聖性に満ちた生活によって劫罰をくだされます。」
 と、言っています。



第三 聖主のご受難のしるしがあらわれる

 聖十字架と聖釘と主の聖体にあらわれる聖癒とされます。これらは、主の勝利の眼に見えるしるしであり、大きな栄光につつまれてあらわれます。聖ヨハネス・クリュゾストモスは、
 「『 十字架と聖痕は、太陽よりも明るくかがやく 』
  『 十字架の力がどんなに偉大であるかを見るがよい。太陽は、暗くなり、月もその光を失う。十字架が太陽や月よりもさんぜんと輝くからである 』
 主は、彼らにこう言われるであろう。
 『 わたしは、あなたがたのために人間になり、しばられ、鞭打たれ、ののしられ、十字架にかけられた。この受難の果実は、どこにあるのか。わたしがあなたがたのたましいの救済のために流した血の報いは、どこにあるのか。あなたがたがそれに対してわたしにしめした献身は、どこにあるのか。わたしは、神であるが人間になることによってあなたがたをわたし自身以上に尊敬し愛した。あなたがたは、わたしよりも世俗の悪事を優先し愛することによってわたしを侮辱した。あなたがたは、この世のどんなに間違った悪でもわたしの信仰とわたしの義よりも好んだ 』」
 と、書いています。義人たちは、これらのご受難のしるしを見て自分たちが主のご慈悲によって救済されたことを知るでしょう。悪人たちは、主のご受難を少しもわが身に役だてなかったのだから、劫罰をくだされて当然だということを思い知るでしょう。



第四 裁き主の峻厳さはここに極まります

 裁き主は、全能であるから全く恐怖がありません。 聖ヨハネス・クリュゾストモスは、
 「主に逆らうどのような力もなく、また、聖主の御前から逃れるすべもない」
 と、言っています。

 どのような金銀財宝も、審判者イエズスの心をたらしこむことはできません。彼の富は、無限に存在します。
 聖ベルナルドゥスは、
 「審判者が来臨される日は、もの知りの言葉よりも、純真なまごころのほうが役にたち、ずっしりと重い財布よりも安らかで軽い良心のほうが喜ばれます。聖なる裁判官は、言葉にごまかされることも、贈物で買収されることもありません」
 と、言っています。

 聖アウグスティヌスは、
 「最後の審判にあらわれる裁き主は、どんな権勢家や有力者もみとめず、金銀も、司教や修道院長や教皇の地位も、その好意をえることはできません」
 と、書いています。

 裁き主イエズスは、憎しみのために心をゆがめられることもありません。真に正義の善人だからで、
 「あなたは、あなたがお造りになったものを憎まれません」 ( 智恵の書11:25 )
 と、あります。

 また、愛に心を曇らされることもありません。公正だから、彼の兄弟である誤れるキリスト教徒たちにもなんの手心もくわえられません。
 「兄弟であっても、なんの役にもたちません」
 と、詩篇にあります。

 誤判断を下されることもありません。審判者聖主イエズスは、至上の知恵。大教皇聖レオ祇い蓮
 「これこそ、至高の裁き主のわざ、その怖るべき眼力。彼の眼光は、どんな錠前もつらぬき、秘密を見ぬいてしまいます。闇も光となり、もの言わぬ者も答え、人間の想念も声なくして語ります。聖主の知恵は、偉大です。代弁人の異議も、哲学者の詭弁も、演説家のりこうぶった弁舌も、策略家の狡猾な知恵も、はむかうことができません」
 と、言っています。

 聖ヒエロニュムスも、
 「その日には、饒舌な人たちよりも、寡黙な人たちのほうが、哲学者よりも、羊飼いのほうが、技能に長けた人よりも、農夫のほうが良いとされ、キケロの才知よりも、単純さのほうが、めでたい」
 と、書いています。



第五 怖ろしい罪の告発:サタン・悪業・全世界

  三人の告発者が、人間 ( 罪人 ) にたいして立ちあがります。

  第一の告発者は、悪魔です。
  聖アウグスティヌスは、
 「悪魔があらわれて、われわれの告解の言葉をくりかえし、彼がわれわれにそそのかしたすべての悪と、その場所と、時間をまた、われわれがなすべき時にしなかったすべての善を思い起こさせます。
 そして、悪魔は、
 『 公正な裁判官である聖主よ、この者は、その罪のゆえにわたしのものだと判決してください。
 この者は、あなたのものになって、恩寵にあずかろうとはしなかったのです。
 この者は、本性からすれば、あなたのものですが、罪のためにわたしのものです。
 この者は、あなたの受難のためにあなたのものですが、わたしの入れ知恵によって、わたしのものです。
 この者は、あなたに不従順であり、わたしに従順だったのです。
 この者は、あなたから不死の衣を受けながら、わたしから地上生活 ( 現世 ) の羊毛 ( 贅沢 ) の上着を受けとりました。そして、あなたの衣はなくしてしまい、ここにまぎれもなくわたしの上着を着て立っています。ですから、わたしは、この者を要求します。この者がわたしのものになり、わたしとともに永劫の苦しみを負いつづけることを要求します 』
 と、言うでしょう。
 このように悪魔によって、悪魔と同類だという判決を受ける人が、裁判官に向って口を開いて反問することができるであろうか」
 と、述べています。

 第二の告発者は、人間自身の悪業です。

 人間自身の悪業が、その人を告発します。
 「彼らは、恐怖におののきながら我れと、我が罪をかえりみます。そして、彼らの罪という罪が、犯した悪事が、彼らを訴えに告発者として立ち上がります」 ( 智恵の書4:20 )
 と、書かれています。

 聖ベルナルドゥスは、
 「そのとき、すべての所業が、罪人にむかって口をそろえて言うだろう。
 『 われわれは、あなたの所業です。あなたは、われわれの仕掛け人です。われわれは、あなたを手ばなしたくない。いつもあなたのそばにいたい。裁きの庭においてもあなたのそばにいたい。 』
 こうして、無数の悪業が、罪人を告発するだろう」
 と、言っています。

 第三の告発者は、世界のすべてです。

 聖グレゴリウスは、
 「あなたは、だれがわたしを告発するだろうか、とたずねるのか。わたしは、あなたに言う、
 『 全世界があなたを告発するだろう 』
 と。なぜなら、創造主 ( 神 ) とともにすべての被造物が、あなたに侮辱されたからである」
 と、言っています。

 聖ヨハネス・クリュゾストモスも、
 「その日、われわれは、なにも答えることができないであろう。
 なぜなら、天,地,太陽,月,昼,夜,全世界が、罪人を訴える証人として立ち上がります。たとえ、これらすべてのものが黙っていても、われわれの思想や行為が、われわれを訴える証人として立つだろう」
 と、書いています。



第六 絶対にごまかしのきかない三人の証人

  第一の証人は、人間のうえにあり (神)
  第二の証人は、人間のなかにあり (良心)
  第三の証人は、人間のかたわらにいます (天使)

 第一の証人は、神御自身です。
 預言者エレミアは、
 「わたしは、審判者であり、また、その証人です、と 主は言われます」 ( エレミア29:23 )
 と、言っています。

 第二の証人は、われわれの良心です。
  聖アウグスティヌスは、
  「来たるべき審判官が、怖ろしいのならあなたが、いまもっている良心から罰を受けなさい。あなたの良心の証言が、あなたの裁きの判決なのだから」
 と言っています。

 第三の証人は、わたしたちを保護するために与えられている守護天使です。
  人間ひとりひとりに与えられている天使は、われわれがしたすべてのことを知っており、証人として立ちあがります。
  「もろもろの天は、彼の罪を明らかにします」 ( ヨブ記20:27 )
  とありますが、この 「天」 は、天使たちを意味しています。



第七 これらすべてのことにたいする罪人の不安

  聖グレゴリウスは、
 「おお、罪人の道は、なんと狭くなっていくことであろうか。罪人は、上に怒れる裁き主を、下に大きく口をあけた地獄の谷を見、右にきびしく告発する罪を、左に彼を拷苦に引きたてていこうとする悪魔を見、内に罪人をさいなむ良心を、まわりに罪人を責めたてる世界の烈火を見ます。
 四面楚歌にとりかこまれた哀れな罪人は、どこに逃げ出すことができるであろうか。隠れることもできず、姿を現わすこともかないません」
 と、言っています。



第八 取り消し不可能な判決

 審判官:裁き主なるイエズスの宣告は、破棄されません、控訴もありえません。世俗の法律でさえ次の三つの場合は、控訴や上告、裁判のやり直しは、ありえません。

 第一、裁判官が、きわめて強大な最高位の権力を持っている場合。
    国における国王の判決には、国王より上位の者はいないから控訴は、ありません。
    皇帝や教皇の判決にたいしても、上告はありえません。

 裁判官が、あまりにも偉大です。
 審判官:裁判官である裁き主イエズスより上位の裁判官がなく、永遠性,尊厳,権威,威力,能力,叡智とにおいてすべての者にぬきんでています。
 たとえ、皇帝や教皇の判決を不服とし、あえて神に訴えることができるとしても、神である聖主イエズスについては、神よりも上位者は、いないから他の誰にも訴えるわけにはいきません。


 第二、悪業が明白な場合。
   どのような悪意や犯罪も、このときことごとく洗いだされてしまいます。
   聖ヒエロニムスは、
   「われわれのすべての行為が、まるで絵に描いたように明白に示されるその日 (主の日) がくるだろう」
  と、言っています。それは、早送りのハイビジョン映像を観るかのごとく、鮮明に映し出されるだろう。


 第三、裁判に長期の猶予がない場合。
   最後の審判には、猶予などありえません。最後の審判であるがゆえに、まったく引き延ばすことなどできません。すべては、一瞬のうちにおこなわれます。

 最後の審判は、これら三つの理由のために控訴や、上告、再審はありえません。
 人間にとって、極めて厳しい判決が待っています。その審判の猶予期間は、この現世地上生活での一生涯、人生をどのように生活したかにかかっています。
 キリスト教をあなどる人々は、福音を聞いたか聞かないかに関わらず、自己の内にある良心に従ったか、どうかを極めて厳しく詮議され、告発されます。
  「だれそれが、やったから わたしもした」 と言う論法は、全く通用しません。

 神に対して、内なる良心に対してあなたは、どうすべきだったのかを問われます。他人と比較するような、価値観を他者に依存する生活をしてはなりません。
 あなた自身の今ある意識以外、あらゆる霊魂と被造物が、あなたの罪の告発者となり、証人となりうることをわきまえて、今後の人生を真摯に歩んで下さい。


  最後に、キリスト者諸氏に告げます。
  自分も洗礼後に大罪を犯した弱いキリスト者のひとりですが、
  「黄金伝説 第一 【 主の降誕と再臨 】 」を読んで思ったことを率直に述べさせていただくならば、

 ・なまぬるい信仰だったと反省する点があれば、この世にいる間に回心して下さい
 ・生きている間に神と和解して下さい
 ・まことの神である聖主イエズス・キリストのもとに立ち帰って下さい
 ・踏み外した過ちを悔いて罪の境遇から命をかけてでも真実な正義の道にひきかえして下さい 
 ・聖主は、赦す御者です
 ・まことの救世主を信じ、受け入れ、希望しつづけて下さい
 ・神の喜ばれることは、なんでも愛をもって行なって下さい
 ・死の直前まで希望を抱き、感謝を忘れず、聖主イエズス・キリストにひたすらより頼んで下さい 
 ・最後の審判の時、聖霊なる神が、われらの弁護者となり、守護聖人と、守護天使が執り成し、永遠の 「命の書」 に書き記される証人となられるように祈り、願い、思い巡らし、言葉に言い表して立ち振る舞って下さい。
 ・人生七転び八起き、死の直前まで謙遜の限りを尽くし、神に憐れみを請い願う身分でしかないことを自覚しつつ、なえることなく信仰を全うして下さい

 と、言うことに尽きます。
 そして、いつも、毎日、あなたの御母、聖母マリアに何でもより頼みなさい。すべての恵みの仲介者・共贖者であられる御母マリアこそは、最期の砦、あなたの霊魂の安らぎと取り成し手ですから、必要な恵み と 愛 と ご加護を乞い願いなさい。





【参考文献】
Jacobus de Voragine [ Legenda aurea ]
ヤコブス・デ・ヴォラギネ 「黄金伝説」

/訳者:前田敬作・西井 武/発行所:株式会社人文書院

バルバロ神父訳 「聖書」 (講談社)



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著者:baramado
▼URL baramado 薔薇窓 ブログ
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  • 2017.10.10 Tuesday
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