マリア・シンマの証言 「 煉獄とは、どういうものですか? 」 / テレザ・ムスコの証言 「 手による聖体拝領 」 は、涜聖 ( 汚聖 ) の罪です


−問答形式の霊魂情報−
「 煉獄とは、どういうものですか? 」

( 証言:マリア・シンマ 、 インタビュー:シスター・エマヌエル )


 それは神の驚くべき考案だと言うべきです。

 イメージにすると、ある日のこと、ドアが開いてかつて地上では、見たことのない美しい人が、それも極めて美しくまた壮麗な姿で現れたと想像してください。
 あなたは、この人の輝きと美しさに心を奪われ圧倒されてしまうでしょう。
 それどころか、彼があなたを必死で愛していることを示しています。 あなたは、今までにこれほど愛されていることを夢にも見たことがなかったのです。
 彼が、あなたを自分に引きつけてあなたを抱きしめたいという強い願望があることを感じます。
 そして、あなたの心に燃えている愛の炎が、あなたを彼の胸の中へ飛び込むようせき立てます。

 ところでちょっと待ってください。

 この瞬間にあなたは、何ヶ月もの間、身体も衣類も洗っていないので自分が、悪臭を放っていることを実感するのです。 そこであなたは、独り言をつぶやきます。

 「いや、この状態では、ちょっと人前には出られない。 まず、シャワーを浴びにいかなければ、・・・ きれいに身体を洗ったらすぐ 帰って来よう。」

 しかし、あなたの心に芽生えた愛は、強烈に激しく燃えていてシャワーを浴びる時間が、耐え切れないほど長く感じるはずです。

 たとえそれがほんの二〜三分だったとしても、彼に会えない不在の痛みは、心の残虐な傷となって 愛の激しさ に比例します

 それは、 愛の傷:炎 です。
 
 「実に私たちの神は、焼き尽くす火である。」[ヘブライ12:29]
 
 「主の日は火の中に現れ、おのおのの仕事の価値はその火によって試されるからである。・・・彼自身は、火を通るようにして救われる。」[汽灰螢鵐3:13,15]
 
 「 反対者 ( = 父なる神 ) とは、道 ( = 人生の途中 ) で、和解 ( = 赦しの秘蹟を ) せよ。 そうしないと、相手は、あなたを 裁判官 ( = イエズス・キリスト ) にわたし、裁判官は、下役 ( = 天使 ) にわたし ついに、牢 ( = 煉獄 ) に入れられる。
 まことに私は言う、一厘残らず返すまで ( 聖人と同じく完全に清められるまで ) 、あなたは その牢を出られない。 」
  [ マテオ 18:23 の譬、マテオ 5:25,26 ]




 「 煉獄 」とは、厳密にはこういうものです。

 それは、私たちの汚れによって課せられている浄化、神の抱擁の前にある猶予であり、強烈な苦しみを引き起こす愛の傷、または、愛のノスタルジアです。
 この燃焼、郷愁は、まさに、私たちの中にまだ残っているあらゆる汚れを洗い清めていきます。
 煉獄は、熱望の場、私たちがすでに知っている神への渇望の場です。 この神と出会ってはいるのですが、まだ、彼と結ばれていません。 煉獄の霊魂は、自分たちがどれほど神を慕い求めているか、この強烈な望みは、どれほど自分たちを苦しめるか、死の苦悶のようなものであることを霊的恵みを受けている神秘家や幻視者に語っています。


 「霊魂を煉獄から救い出す助けとなる一番効果的な方法は何ですか?」

 最も効果的な方法は、ミサ聖祭を捧げることです。


 「なぜミサ聖祭なのですか?」

 ミサ聖祭の中でキリストが、私たちへの愛ゆえにご自身をお捧げになるからです。
 そこでキリストが、ご自身を神にお捧げになるので、それは、最も完全な奉献です。 司祭は、神の代理をするものですが、私たちのためにご自身を捧げてご自分を犠牲にするのは、神ご自身です。

 死者のためのミサ聖祭の効果は、生存中にミサ聖祭を大切にしていた人にとって更に大きいのです。
 ミサ聖祭に参加してそこで心から祈った人、時間の許す限り平日のミサ聖祭に与った人なら、自分たちのために捧げられたミサ聖祭から大きな助けを受けます。 この場合にも人は、自分が蒔いたものを刈り取ります。

 煉獄にいる霊魂には、自分の葬式の日に人々が、自分のために実際祈っているか、ただ参加していることを見せるためだけであるかがはっきり見えます。 哀れな霊魂は、涙は、自分たちのためにならないと言っています。

 祈りだけが助けになります。 人々が、葬式に来ても神にひとつも祈らないことを度々嘆いています。
 彼らは、涙を流しますが、それは無駄です。

 ミサ聖祭に関して、
 << アルスの聖なる司祭、聖ヨハネ・ビアンネー >> が、小教区民に伝えた美しい実例を引用します。
 聖ヨハネ・ビアンネーは、信徒らに次のことを話しました。

 「私の子供たちよ、ある善良な司祭が、愛情を込めてかわいがっていた一人の友人を失うという不幸に見舞われました。 それで彼は、友人の霊魂が、安らぎを得るために一生懸命祈りました。
 ある日、神は、彼の友人が、煉獄にいて非常に苦しんでいると彼に知らせました。
 その聖なる司祭は、死んだ愛する友人のためには、ミサの聖なる犠牲を捧げるほかはないと信じていました。 聖変化の時、彼は、手にホスティアを取って言いました。

 『 聖なる永遠の父よ、交換させてください。 あなたは、煉獄にいる私の友人の魂を手に持っておられます。 私は、両手にあなたの聖子の御身体を持っています。 ああ、善良で慈悲深い聖父よ、私の友人を救ってください。 そうすれば、私は、聖子の死と受難のすべての功徳と共に聖子をあなたに捧げます。 』 」

 ホスティアが、聖変化し、御聖体 (ホスティア) を高くかかげたとき、彼には友人の魂が、栄光に輝いて天国に昇っていくのが見えました。
 この願いはかなえられました。 神は、この取引を受け入れてくださったのです。
 子たちよ、私たちにとって大切な魂を煉獄から救いたい時は、同じようにしましょう。 聖なるいけにえを通して、その死と受難のすべての功徳と共に神の愛しておられる聖子を神にお捧げしましょう。 神は、私たちに何一つ拒否することは、お出来にならないのです。


 地上での苦しみを無駄にしないで下さい

 哀れな霊魂を助けるためにとても力強いもうひとつの方法があります。
 すなわち、自ら捧げる断食、苦行、節制等のような私たちの苦しみ、また、もちろん病気や哀悼のような望まなかった苦しみも含めてです。地上の苦しみには、違う価値があるからです。地上で私たちが苦しむ時、愛において成長することができ、功徳(功績)を得ることができます。
 しかし、煉獄の苦しみの場合はそうではありません。

 煉獄における苦しみは、霊魂を罪の結果から清めるためだけです。地上では、すべての恵みが与えられています。それは、選択の自由が与えられているからです。

 というのは、苦しみには、特別の意味があるからです。 自発的に捧げる苦しみ、仕方なく耐え忍びながら捧げる苦しみ、もっとも小さな犠牲、病気、悲嘆、失敗など忍耐をもって耐え忍び、謙遜をもってそれを歓迎するならば、その苦しみは、霊魂を助けるのに並外れた力を持つのです。

 成すべき最善のことは、聖母マリアの御手の中に苦しみを置くことによってイエズス様の苦しみに私たちの苦しみを結び付けることです。

 「私は、今あなたたちのために受けた苦しみを喜び、キリストの体である教会のために、私の体をもってキリストの苦しみの欠けた所を満たそうとする。」 [コロサイ1:24]

 聖母マリアは、苦しみをどのように利用するかを 最もよく知っている人です。
 しばしば、私たち自身は、自分の周りにある最も緊急な必要を知らないのです。 勿論、これを全部聖母マリアは、私たちの臨終の時、私たちに返してくださいます。
 もうお分かりでしょうが、捧げられたこれらの苦しみは、来世で私たちの最も貴重な宝物になります。 私たちは、めいめい互いにこのことを思い出させなければなりませんし、また、苦しむ時には互いに励まし合わなければなりません。

 そして、祈りを惜しまないでください!

 とても効果的なもうひとつの方法は、十字架の道行きです。
 なぜなら、主の苦しみを熟考することによって私たちは少しずつ罪を憎み始め、すべての人々のための救いを渇望し始めるからです。
 そして、このような気くばりは、煉獄の霊魂の苦しみを大いに和らげるのです。
 十字架の道行きは、私たちの中に回心する心を起こさせます。

 すべての人は、内面的な信仰:良心を持っています。 たとえ、彼らが心がけなくても彼らは、それとなく絶対的な神を認識しています。

 信じない人、そんな人はいないのですよ!
 各々の霊魂は、善悪を見分ける良心を持っています。神から与えられた良心、つまり、内面的な知識というものをです。
 もちろん、程度の違いはあっても、めいめい善悪を見分ける方法を知っています。 この良心によって 一人一人が、幸せを得ることができるのです。

 たとえば、肉体的にあるいは、精神的にあまりにも苦しみ、その苦しみが、あまりにもきつくて死にたいと言えば、何をすることができますか。
 はい。 これは、非常によくあることです。

 「私の神よ、私は、この苦しみを霊魂の救いのために捧げます。」

 と告白し、祈るのです。
 そうすれば、主は、新しい信仰と勇気を与えてくださいます。
 しかし、最近はもう、このように誓う人は、一人もいません。
 これを行うことによって魂は、大きな至福、すなわち天国での大きな幸福を得るのだと、言うこともできます。 天国には、何千種という異なったタイプの幸せがありますが、各自が完全に幸福なのです。 望みは、すべてかなえられていますから、もう、これ以上何も報いられないことを皆は知っています。



 「 死んだ人々の霊を呼び起こすことや霊応盤等の交霊術の行為をどう思いますか? 」

 それはよくありません。 それはいつも邪悪です。 テーブルを動かすのは、いつも悪魔です。

 これを何回も繰り返して言うことは、非常に大事です。

 現代では、以前よりも多くこういったばかげた行為が、危険なほど増えてきているので人々は、本当にこれを聞く必要があります。
 交霊術では、人は、彼ら悪魔を呼び起こすようにするのです。 煉獄の霊魂が、神の特別な賜物によって幻視者や神秘家に現れる時には、神だけがそれを許してくださいます。 この区別は、全くはっきりしています。 私たちは、それを非常に重大なことと 考えなければなりません。

 すなわち、交霊術:テーブルを動かすこととそういう種類のほかの行為 「 こっくりさんなど 」 をする人たちは、自分たちが、死者を呼び出していると思っているのですが、実際にもし、彼らの呼びかけに応答するものがあれば、それは、いつでもそして例外なく サタンとその堕天使たち です。

 彼らが、返事をしているのです。
 交霊術師:占い師、魔法使い、霊媒師などは、彼ら自身とそして助言を求めて彼らのもとへ来る人々にとっても、非常に危険なことをしているのです。
 彼らは、ウソにすっかりはまり込んでいます。 死者を呼び起こすこと「 口寄せ 」は、禁じられています。 厳しく禁じられているのです。

 「 自分の息子や娘に火の上を歩かせる者、占いやまじないや易や魔法を行う者、呪縛を行う者、妖怪や先祖の霊を呼ぶ者、死霊に呼びかける者などがあってはならぬ。 こういうことをする者は、主に忌み嫌われる。 ・・・ 主は、おまえの兄弟の中から、私のような預言者 <<イエズス・キリスト>> を民のために立てられるであろうから、その者の言うことを聞け 」 [ 第二法18:10〜15 ]

 当然のことながら サタンは、神から出るあらゆることを真似ることができます。 実際にそうします。 彼は、死者の声や風采を真似ることができますが、どんな種類の表現もすべていつも悪魔から来ます。
 サタンが、病気を癒しているように見えることさえありますが、そのような癒しは、決して長く続きません。
 度々あるように、サタン自身が、起こしている病気なので、何かの理由でサタン自身が去って行けば、病気も消えるのです。 実際に、体の創造主である神のみが癒すことがおできになります。



ファチマの聖母マリア像の写真から血の涙
ポルトガル/「 ファチマの聖母像 」の写真から、大量の血の涙が流れた
イタリアのテレザ・ムスコが撮影した写真


煉獄の霊魂に関するテレザ・ムスコの証言、
「 手による聖体拝領 」は、涜聖 ( 汚聖 ) の罪
テレザ・ムスコ ( 1976年帰天 ) 現代の神秘家の伝記



 1962年11月2日、死者の記念日に都合があって、煉獄の霊魂のために墓地に行けませんでした。 それで、霊的に煉獄の霊魂に一致することにしました。

 「 煉獄の霊魂のために、この世の花を捧げるよりも、お祈りと犠牲を捧げるほうが、ほんとうに美しいことだ。 」
 と、かの女は考えたのでした。
 テレザは、墓地に行かれないので、家で煉獄の霊魂のために、沢山の祈りをしました。
 ところが、その日の午後になると、テレザは、突然多くの人が、自分の部屋に入ってきたのを見ました。 テレザは思わず叫びました、

 「 何をお望みですか? 」

 すると、その人たちは、喜びにはずむ声であいさつし、

 「おかげさまでわたしたちは、煉獄が終わったのです。」

 その人たちは、まもなく消えてしまいました。


 手による聖体拝領

 最近煉獄の霊魂の出現が、わりあいに多くなりました。
 1968年に、これについて書かれた本が、ドイツで発行されると、14カ月で第6版までゆき、15万部の売れゆきがありました。間もなくこの本は、フランス語やイタリア語に翻訳され、非常に人々の関心をひきました。
 その本の中には、フランスの聖女マルガリータ・マリア・アラコック、 イタリアの聖ヨハネ・ボスコ 、ドイツの聖女ゲルトルード、べルギーの聖女クリスティーナをはじめ、現代の人々にも煉獄の霊魂の出現があったと述べられています。
 では、ここで、その中の二つの例だけを紹介しましょう。


 ひとりの司祭の霊魂が、熱心な信者に現われて、
 「 わたしは大変な苦しみを受けています。どうぞ、祈ってください。 」
 と、しきりに願いました。
 そして、なぜ、このように苦しまねばならなくなったか、その理由を知らせました。 この司祭は、聖体拝領を信者の手によってさせたばかりか、信者がひざまずいて聖体拝領できないように、わざわざ聖体拝領台をお聖堂から取り除いたのでした。
 彼が、煉獄で償っているたいへんな苦しみは、このためだったのです。 このつぐないを早めるための方法も示されました。 それは、かれが取り除いた聖体拝領台をもとのこの聖堂内に置いて、ご聖体を手に受けるように習慣つげられていた信者に、

 「 もう手でご聖体を受けないように。 」

 と、すすめることでした。
 出現をうけたこの信者が、そのことを主任司祭に話しますと、主任司祭は、よく理解して次のように言いました。

 「 ご聖体を手に受ける習慣をはじめたのは、わたしではありません。 ひざまずき台のことについては、わたしも、また、それをもとの所に置きたいのですが、その前に、ほかの司祭たちと相談しなければなりません。 」


 もうひとつの例でも、やはり、別の司祭の霊魂が現れ、
 「 聖堂のひざまずき台をはずし、信者に手による聖体拝領を強制したため、今煉獄で大きな苦しみを受けている 」
 と、嘆きました。

 教皇は、聖体拝領の方法について、口に受けても、手に受けても、ひざまずいて受けても、立って受けてもよいことを許可されました。 そして、この許可と同時に、信者の自由を尊重して、強制的なことをしないようにといく度もくりかえされました。 教皇が、こうお決めになったからには、すべての司祭は、この規定を守らなければなりません。
 この場合、信者には、たとえ司祭の意見や命令にそむくとしても、ご聖体を口で受けることも、ひざまずいて受けることも、その権利があり、この権利は、尊重されなければなりません。 また、信者は、この権利を要求することもできます。
 司祭、あるいは、司教が、手による聖体拝領を強制するとしたら、これによって、どれほど重大な責任を負うようになるでしょう。

 このことに考えおよんだなら、もうそんなことをしないでしょうし、司教たちも、教皇の規定を守らない司祭たちを適当にいましめるはずです。
 教皇聖座から何回もくりかえされた規定にそむくときは、そのつぐないを煉獄でどれほど厳しく果たさねばならないことでしょう。
 煉獄の霊魂は、度々、教皇のために祈るようにと、励ましています。



【 参考文献 】

 「 煉獄に居る霊魂の驚くべき秘訣 」 - シスター・エマヌエル著/中尾純子訳、
 【 オーストリア人 マリア・シンマ( 2004年帰天 )は、煉獄の霊魂の訪問を受けるカリスマを受け、
 様々な真実について聞きました。 マリア・シンマが知った煉獄についての話を、シスター
 ( シスター・エマヌエル ) が、聞いたインタビューを記録した、貴重な1冊 】

 「 聖カタリナの煉獄論 」
 「 ご存じですかシリーズ 」デルコル神父著

 バルバロ神父訳 「聖書」(講談社)マリア・ワルトルタ 著 『 時の終わり 』 日本語翻訳版(抜粋)
 マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋 世紀末の黙示録 」


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著者:baramado
▼URL baramado 薔薇窓 ブログ
http://baramado.jugem.jp/
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  • 2017.10.10 Tuesday
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