ビジョンの危険性 ( No.1 ) 「十字架の聖ヨハネ著・カルメル山登攀」 と 甲殻機動隊 「 ゴースト・イン・ザ・シェル 」 との因果関係

カルメル山登攀の図

ドン・ボスコ社発行/十字架の聖ヨハネ著「カルメル山登攀」(奥村一郎氏訳)



 ワラベ   カタ
『童のときは、 語ることも童のごとく、思うことも童の ごとく、論ずることも童のごとくなりしが、成人となりては、童のことを棄てたり。
 今、我ら、鏡持て見るごとく、見るところ、おぼろなり。』
 ― 第一コリント13:11 文語体新約聖書 ―

 甲殻機動隊「ゴースト・イン・ザ・シェル」をご存知だろうか?
 押井守氏の代表作であり、続編劇場版「イノセンス」の基点でもあります。そのストーリー展開の中に上記のセリフが挿入されています。

 本来の聖書的意味合いは、

「幼子だったとき、わたしは、幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。
 成人した今、幼子のことを棄てた。
 わたしたちは、今は、鏡におぼろげに映ったものを見ている。」

 わかりやすく訳すと、

“わたしが幼児であったときには、話すことも幼稚で、考えることも同じく幼稚であった。しかし、大人となっては、その幼稚さを棄ててしまった。”

 と言う霊的成長の表現を意味しています。

 『感覚的なことがらや、そこから霊が引き出すことのできる認識などの幼稚なものに執着をもち、それらを捨てようと思わないならば、われわれは、決して霊における幼児的段階からぬけ出られないであろうし、常に、神について語ることも幼稚で、神を知ることも、神について考えることも幼稚なのです。』

 と、言うことになります。

 譬えて言うなら、幼い子供が欲しがる “ ペロチャンキャンディ、風船、綿菓子、マーブルチョコレート ” など、感覚的に楽しく、甘く喜べれるもののことを指します。

 大人になれば、感情の欲望を抑え、理性を働かせて無味乾燥なものの中に真の価値を見出そうと努力することにあります。

 霊的なもの、夢や、ヴィジョンを感覚的に欲してはならないということです。
 感情の満足感ばかりに執着していてはならないということです。
 「楽しみや喜び、快楽的なものを卒業し、大人になって、かたいものや反芻するようなものを選び取るようにせよ」
 と、言うことを示しています。

 「牛のように神の言葉(聖書の言葉)を繰り返し反芻しなさい」
 と、いうことであり、ユダヤ人が食べてよい肉が、まず、反芻する動物の羊や牛を手本とすることから来ています。


(1) 預言は、天気「予報」ではなく、親が子供を思う気持ちから出た言葉、子供の至ら無さを戒める「忠告」です。

 『あなたたちが試練を受けるのは懲らしめのためであって、神は、あなたたちをこのように扱われる。父から懲らしめられない子があろうか。誰にでも与えられる懲らしめを受けなかったら、あなたたちは “私生児” であって、真実の子ではない。』
 ― 聖パウロ・へブライ12:7〜8 ―



(2) 神からのヴイジョン(示現,幻視)や言葉(預言,啓示)は、原因が変われば、『たとい神が、本人、または他の人によって、良いことにせよ悪いことにせよ、ある人に何かはっきり言いまたは、啓示されたとしても、その人の心の持ちかた、あるいは、その土台となっている事柄が、いろいろ変わることによって、それは、大きくまたは、小さく変わったり、または、全く無くなったりし得るもので、人々の思うようにそれが実現するわけではない。』
 ― 十字架の聖ヨハネ カルメル山登攀 P199 ―



(3) 「聖母の預言」とは、聖母が世界中で出現し、人類に伝えようとしている内容の一つの手段です。本来、すでに聖書に書かれている預言であり、その内容を明らかにすると共に、祈りによって、回避する事にあります。

 『・・・私の言葉に含まれている預言に留まってはなりません。その預言は、あなたたちが、現在生きている、この時代を理解させようとする、一つの努力に過ぎないのです。
 私が、母としての立場から、あなたたちがさらされている危険、迫っている脅威、起きようとしている悪について話すのは、ほかでもありません。それらの悪が、まだ免れ得るもの、その危険から逃れられるもの、そして、神のご計画が、そのあわれみ深い愛の力で、いつでも変更可能なものだからです。
 私が、天罰を前もって知らせるときにも、それらはすべて、あなたたちの祈りと、償いを捧げるその改心の力によって、一瞬のうちに変え得るものであることを思い出しなさい。』
 ― 1984.1.21 Fr.ステファノ・ゴッビ神父へのローキューション ―
   (司祭のマリア運動創設者)[ マリアから司祭へ ]

※ ローキューション:内的語りかけ。プロテスタントでは、「レーマ(rhema)」と言われています。


 話を「ゴースト・シェル」に戻すが、人間が霊的に大人になると神の目から世界を見ることができるようになります。それは、一種の愛や慈しみによって全世界を愛おしく見ることができようになります。ひとりの罪びとの改心をこよなく切望することになります。霊の目が、神的に開かれると、一瞬にして知りたいことを言葉による説明など無くても霊感によって知覚し、理解できるようになります。
 ネットの膨大な情報ソースは、人間の「ゴースト」と融合(結合)する時、人間の霊魂が、神的な知覚と一体化すると言うことを暗にほのめかしています。
 宇宙は、広大無辺ですが、神の目から見れば内包された世界であり、造られたものである以上有限となります。また、宇宙は、人間の体(肢体)に似せて造られています。

 

 ⇒ No.1よりのつづき・・・・


(4) 預言(ヴィジョン)に留まってならない理由とは何か?

 「知覚、想像に映ずるヴィジョン、何かの形やイメ―ジ、個々の知的形態をとって示されるものであるならば、それが悪魔に由来する偽りのものであるにせよ、あるいは神からくる真実のものであることがわかるにせよ、理性がそれにこだわって、そこに糧を求めたり、心を留めたりしてはなりません。」

 (自分の見た)ヴィジョンに執着し、見たいと思っていると、悪魔に偽りのヴィジョンを見せられ騙されてしまいます。

 『それらのことについて知性を照らし、役に立つ良いものだからといってそのヴィジョンにこだわって、神的英知との一致が妨げられたり、あるいは、偽りのヴィジョンによって欺かれたりしないようにすることにあります。

 神との一致のためには、霊魂は、ヴィジョンなどから離れて、赤裸(何も持たない)になり、そうした形のものは何もないまでに、清く洗われた者にならなくてはならない(頭の中を何も考えず空っぽにすることではありません。それは、また、別の意味で危険な行為です)。
 なぜなら、理性が一致すべき神の英知には、何らの形態というものがなく、全く純粋無垢であるため、限られた枠や個々の形をとる認識の中に入ってこないからです。』

【参考】

・旧約聖書 第二法 4:12

 「あなたたちは、その言葉の声を聞いたけれども、その形は全く見ることがなかった。」


・旧約聖書 民数の書 12:6〜8

 「私のしもべモーゼには、他の預言者のようには語らない。私の家の最も忠実な者と定め、私は、彼に顔と顔を合わせ、口より口にはっきりとなぞぬきで語る。かれは、喩えとかそれに類似したものや、形をかりて神を見るということもない。彼は、主の姿を見ている。」



(5) 神の愛の本質的な一致に達するためには、ヴィジョンやイメージ、個々の安直な理解や啓示などを頼りにしてはいけません。
 神との一致を目指すためには、修道的な要素が不可欠で、絶え間ない努力、無味乾燥の味気ないものを忍耐しながら練り上げていきます。
 錬金術は、その良い見本となります。自らの純粋な霊魂を形成するためには、雑念やこの世の欲望を燃やし尽くしてただひたすら神との愛の一致に達するために日々切磋琢磨し、信仰を深めることにあります。
 注意:この場合の錬金術とは、金を得る方法とか賢者の石を得る方法ではありません。もともと、錬金術とは、フランシスコ会やドミニコ会などの修道士達の修道方法でした。自分自身の精神を純粋な心へと精錬する修行のことでした。

 「ガラス窓に入る光の妨げとなるのが、汚れであるのと同じく、心の不純と不完全は、精神が、神との真の交わりを、自由にもつことの妨げとなります。」

 ヴィジョンを受け取る謙遜な霊魂とは、・・・

 『霊魂も、ガラス窓が、そこに差し込む太陽光線を妨げることが出来ず、ただ、全く受け取るというのに似て、いくら拒もうと思っても、それらのイメ―ジの力や働きかけを受け入れないでおこうとしてもできず、どんなに抵抗してみても無駄です。なぜなら、謙遜な愛をもって何もかも棄ててかかる意志であるならば、この超自然的な光が、注がれるのを防ぐことは、できないからです。』

 超自然的な光=神からの預言,ヴィジョンのこと

 『霊的なものは、感覚にとらえられるような形をとるものではなく、われわれを信仰における神との一致に導くもので、この信仰こそ、ふさわしい手段なのです。したがって、向上するためには、ヴィジョンなどを常に退けなくてはなりません。』



(6) 神が、超自然的ヴィジョンをお与えになるというのが、真実であるならば、一体何のために神は、与えたもうのであろうか?

 「神は、霊的に本質的なものだけをお与えになれるのに、なぜ、わざわざそのような感覚を通し、ヴィジョンや、感覚的イメージによってそうしたものをお与えになるのであろうか?」

 ≪3つの基本があります≫

 1. ローマ人に与えた聖パウロの言葉
 「あるものはすべて、神により定められている」

 2. 知恵の書 8:1
 「すべてのものを、無理なく、美しくととのえたもう」

 3. 聖トマスの『真理について』第12問、第6項
 「神はすべてのものを、その各々のあり方に従って動かしたもう」

 『神が、霊魂を動かし、これをいちばん低いところから、ご自分との神的一致という、いちばん高いところにまでお上げになるには、それを順序正しく、かつ妙(たえ)に、また、それ自身のあり方に従ってなしたもうということです。』

 『理解や認識の足場の感覚といういちばん低いところから、人間の霊魂のあり方に応じて神は、感覚によってとらえることのできない、正反対の極地にあるその神の英知にまで我々の霊魂を高めたもうためなのです。』

 『通常、自然の行為は、多くの過程的予備的行為が、たくみに秩序正しく組み立てられてゆくわけで、いちばん低い外面的なところから、いちばん高い内面的なところまで、人間を徐々に完成されるのです。』

 『感覚がしっかりしたものになり、一層それを完全なものにするために、善に身を固めさせるべく、何か、超自然的な報いや恵み、ある種の超自然的な交わりを与えられるのが常です。』

【参考】

  “ 霊は、非常な進歩をなし、少しずつ徐々に自分を改めてゆく ”
  “ 霊の味わいは、肉のものをすべて味気なくする。 ”
  ―聖パウ口の言葉・コリント前13:11―

 霊的に成長すると、この世の感覚的欲求を疎んずるようになります。

 『感覚にふれる外的なものにしがみつくものは子供であり、全き成人とも言える霊の実質に達することはないからです。たとえ、神が差し出してくださったものであるにしても、自分の成長のためには、それらの啓示を、おいそれと受け入れようとしてはなりません。』



(7) たとえ、神からのものであろうと、意志とは無関係に感覚に入り込んでくる想像(映像)のヴィジョンや、その他の超自然的知覚を受け取ってはならない理由とは?

 ≪2つの理由があります≫

 1. われわれの側から、ヴィジョンを妨げたりすることができたとしても、神は、それにもかかわらず、そこから実りを取り出すことがおできになるのであって、それを妨げることは、我々の力の及ばないことだからです。

 『神が、与えたいと思われた宝は、何かの不完全や所有欲によらないかぎり、それを妨げることはできないからです。したがって、こうしたヴィジョンを謙遜に、恐れをもって退けることには、不完全とか、所有欲とか、そういうことはありません。』

 2. 良いものと悪いものとの識別、あるいは、それが、光の天使か、闇の天使か、を見分けるための危険と骨折りから免れるためです。

 『このようなことの中には、決して利益はなく、ただ、時間を空費し、心をがんじがらめにし、はなはだしい不完全や停滞に身をさらすだけのことで、ことこまかな知覚や、個々のものの認識から心を解放して、大切なことに目をむけさせることにはならないからです。』

 「ヴィジョンなどに執着せず、忘れなさい」と、言うことであり、ほったらかしておいても何ら問題にはなりません。
 なぜなら、時が来れば、神ご自身が、働きかけて環境を変え、天使や神から遣わされた人を通してはっきりと具現化させるからです。なすべきときに神ご自身によって周りが、整えられていくものです。


【参考】
 ・ダヴィドの言葉・詩篇 147:17
 「(神は) 切れぎれのパンのように、氷を投げ送る。」

 『神は、その英知を一口ずつ送られた。つまり、一口ずつ霊魂にその糧をあたえるのです。』

 ・聖パウ口の言葉・汽灰螢鵐反佑悗亮蟷 3:1〜2
 「私は、あなたたちに、霊の人に向かってするようにではなく、肉体の人、すなわち、キリストにおける子供に向かってするようにしか話せなかった。
 私は、あなたたちに固い食べ物を与えないで乳を飲ませた。あなたたちは、それに耐えられなかったからである。だが、今もまだできない。(妬みと争いがいまだにあるから)」

 ・聖ぺト口の言葉・兇撻噺 1:19
 「更になお、かたい預言の言葉を私たちはもっている。あなたがたはこれをもって暗いところを照らす灯とし、夜が明けて陽の出るまで、よくこれに思いをひそめよ。」

  “ キリストについての証しとして、われわれはタボル山のヴィジョンよりもさらに確かな保証である預言者の語ったことばを持っています。ちょうど、暗闇の場を照らす灯のようにそこに目をそそぐがよい。 ”

 『聖ぺト口は、御変容のキリストにおいて栄光のヴィジョンをみたことが、あれほど確実なことでありながら、その事実に人々が、おもな確証を求めることのないように、信仰において歩むように記しています。』

 『神が、特に与えたいと望んでおられるもののおもな目的は、敬虔な信仰心だけが、引き出されることにあります。』



 ⇒ No.2からのつづき・・・・、


(8) たとえ、ヴィジョンが、神からのものだとしても、それを、すぐに軽々しく信じこむことから生じ得る弊害について説明します。

 主の言葉・マテオ 15:15
 「盲人が、盲人を導けば、二人とも穴に落ちこむ。」

 『ヴィジョンが、何か価値あるものと考え、何か良いものを自分はもっているため、神は、私を重んじていて下さると気をよくし、およそ、謙遜とは、反対の自己満足に陥るため、少なくとももう、人は、謙遜ではなくなってしまいます。悪魔は、気づかれないように、そういう気持ちをひそかに増し、次に、他人は、そうしたものをもっているかどうか、そのような状態にあるかどうか、という気がかりを取り出させ始めます。これらは、聖なる単純さ、精神の孤独に反するものです。』



(9) (2) の [ 啓示や神の言葉は、人間が、理解した通りにその言葉の響きのままになるとはかぎらない ] という例題をあげます。

 ・創世の書 15:7「お前に、この地を与えよう。」
 ・創世の書 15:8「主よ、わたしが、それを持つようになることを、どうして知ることができますか。」

 『神は、アブラハムをカナンの地にお導きになられて後、何度もいわれたのに、アブラハムが、非常に年老いてしまってもなお、土地は決して与えられませんでした。神は、持つのは、彼自身ではなく、400年後に彼の子孫が、所有することを示されました。(15:13)』

 ・判事の書 20:18「ユダが先頭に立つ。」
       20:20「討ちに行け。」
       20:28「攻めに出よ、明日おまえ達の手に渡す。」

 『べニヤミン族の間でおかした悪を罰するため、イスラエル族が集合し戦いをしたことについて、神は、戦え、と言われただけで、彼らが「勝利を得る」とは言われませんでした。神は、この敗北によって、彼らのうちにある怠惰と傲慢を罰し、へりくだらせようと、お望みだったのです。』

 ・聖パウロ 競灰螢鵐 3:6「文字は殺し、霊は生かす。」

 『文字や言葉や形やヴィジョンなどの、目に映るものにこだわっている人は、多くの誤りを免れることができず、感覚を頼りにして導かれ、それを全くぬぐい捨てて、霊に場所を与えなかったため、後になって自分の見方が、いかに近視眼的で混乱していたか、に気づくのです。』

 ・イザヤ 28:9「だれに教えようとするのか。だれに示しを説明しようとするのか。乳離れしたばかりの乳飲み子にか。」

 『イスラエルの多くの子らは、預言者の預言を、ひどく字句にこだわって解釈した結果、かれらの期待したようには、成就しなかったのをみて、それを軽視し、信じなくなってしまいました。
 こうして、預言者を侮辱することになりました。イザヤは、「だれに預言の知識を教えたもうのか?文字の乳、感覚の乳房よりすでに離れた者をよそにして、その教えをだれに悟らせたもうのか?」と、言ったのです。』

 ・使徒 13:37「エルサレムに住んでいた人々、および、そのおもだった人々は、彼がだれであるかを知らず、安息日ごとに朗読される預言のことばも解しないままに、彼を裁いて、それとは知らず、その預言を果たしていたのである」

・ルカ 24:21「かれこそ、イスラエルを救うものだと、我々は期待していた。」

 『キリストと共にいた弟子たちまで思いちがいをして、この世の救い、地上の主権者のこと、と解していたのです。』

・ヨハネ 11:50「全国民が亡びないために、一人の人間が死ぬのはよいことである。」

 『カヤファは、それを自分から言ったのではないが、自分なりにそれを解釈したのであって、聖霊の言い給うとしたことは、別のことでありました。』

 『言葉や啓示が、神からのものであっても、それによって安心していることはできません。その解釈の仕方や方法において、まことにたやすく、しかもひどい誤りに陥ることがあり得るからです。
 そのため、霊的指導者は、その弟子が、超自然的なことがらの知覚を重大視しすぎて、彼の霊を小さくしてしまうことのないように努めなくてはなりません。霊的指導者は、あらゆるヴィジョンやことばから遠ざかって、精神の自由と信仰の暗黒の中に留まることを学びとるように教えなくてはなりません。』

 ・ヨナ 3:4「今から40日のうちに、ニネべは、破壊されるだろう。」

 『神に対し、人々が背いたというような不敬がなくなるか、または、変わるならば、処罰もなくなるだろうが、脅威が真実であったことに変わりはなかったのです。』

【参考】
 ・ヨハネ 12:16「弟子達は、その時は、これらのことがわからなかった。しかし、イエズスが、光栄を受けられたのちに、弟子らは、それらのことが、イエズスについて記されていたことであり、人々は、そういうふうにイエズスに対して行ったのだと思い出した。」

 『神は、天上にあり、永遠の道に則って話したもうのに対し、われわれは、地上の盲人で、肉体と時間によって見る他はないからです。』



(10) 神は、なんのためにそうしたものをお与えになるのであろうか?

 『それを話したもうた神のお望みのままに、その時になれば分かることであり、神の望みたもう者には分かることで、やはりそうあるべきだったということが、後になって明らかになるのです。』

【参考】
 エレミア 20:7「主が私に誘いをかけられたので、私はそれにのりました。」

 哀歌 3:47「恐れと穴が、惨めさと滅びとともに、私たちの分け前となった。」

 ヨナ 4:2「主よ、私は、自分の地にいたとき、こうなるだろうと思っていました。それだから、初めは、タルシスに逃げようとしたのです。私は、あなたが、愛に富み、憐れみに富み、怒るに遅く、慈しみに満ち、災いを下すときには、情にもろいお方だと知っていたからです。」

 『神のことのために、預言者たちは、欺瞞者とみられ、そのために非常に苦しまなければならなりませんでした。』




 ⇒ No.3からのつづき・・・・、


(11) 神は、超自然的事柄を懇願されたことに、時にお答えになることはあるにしても、それをよろこびたもうのではなく、答えながらも、かえって、憤りを感じておられるということについて説明します。

 ・イザヤ 7:12「わたしは願わない、主を試みることはしない。」

 『すべて不正なことは、神の憤りを買うからです。』

 『神を試みることは、異常な道、超自然の道によって神と交わることであることをアカブ(アハブ)王は、よく知っていました。』

【参考】
 民数の書 22:32「なぜ、雌ロバを三度も打ちたたいたのか。私は、おまえを止めるためにきた。おまえの旅は、私の気に入らぬからだ。」

 『自然を超えた異常な道で、何かを知りたいと望むことは、感覚の中に霊的な楽しみを求めることよりも悪いことです。少なくとも小罪を犯すことで、そうすることをすすめる者も同様です。』

 『超自然的に何かのことが、われわれに告げられたとしても、そこから理性と福音の掟にかなっているものだけを受け入れ、心の糧とするようにしなくてはなりません。』

 『困っているとき、労苦しているとき、神は、お望みの方法で我々のために計らって下さるに違いない、という希望と祈り、以外に優れた、かつ、安全な方法は、ないということになります。』

 ・何のために神は、そのような望みに時々答えたもうのか?
 ・時々は、悪魔が答えています。
 ・神が、答える場合には、その道をゆくことを望む霊魂の弱さのためです。
 ・神が、その霊魂に背を向けておられると考えて余りに心を痛めないためです。
 ・人間の弱さを考慮して、神のみ、知りたもう他の目的のため、これに答えてやるのがよい、と思し召しになる場合にあります。

 『悪魔は、神が伝えたもうことがらと酷似したことを示すことによって、神の装いをして人間につき従い、それとは気づかれないように、しばしば入りこんでくるのです。』

 ・イザヤ 19:14「主は、かれらの心に、目まいを生じさせたもうた。」

 『将来のことを超自然の道によって知ろうとする人々について言っています。』

 ・列王の書上 22:1〜38「アカブをそそのかし、預言者たちの口に偽りの霊をおかれた。」

 『かれらは、恩寵や恵みを遠ざけられ、神から離れます。すると、悪魔が近づいてきて、人間の好みと欲望に、こびて答えるため、いい気になり、その答えや交わりが、自分の意志に添うものであるために、どうしてもひどく欺かれることになります。』



(12) 恩寵の掟を与えられている今においては、旧約時代のように、超自然の道によって神に間いかけることは、なぜゆるされていないのか?

 ・旧約時代には超自然的な道で神との交わりがあり、正当であり、神がお命じになられました。
 ・イザヤ 30:2「わたしの口にあなたたちは問わなかった。」
 ・ヨシュア 9:14「イスラエルの重立った人々は、主にうかがいを立てずに彼らの食料を受け取った。」

 『旧約の時代において、神に尋ねることが許されており、預言者や司祭も、神からの啓示やヴィジョンを求めることが、それなりによいことであったのは、当時は、まだ、信仰が、それほどしっかり根をおろしておらず、福音の掟がなかったため、神に尋ねる必要があり、神もそれらに類したもの、しるしなどによって語ることをよしとされました。』

 ・聖パウロの言葉・へブライ人 1:2「昔、神は、預言者によって、何度もいろいろの形でわれわれの祖父たちに語られたのであるが、最後に、今この日になって、おん子によりすべてを一度にわれわれに語られた。」

 『今日になってもなお、神に何かを尋ねたり、あるいは何かのヴィジョンや啓示を望むような人は、愚かなことをするだけではなく、神を傷つけることになります。・・・・キリストの上に目を注ぐならば、かれが、神の言葉と答えのすべてであり、ヴィジョンや啓示のすべてであるから、請い求める以上のすべてを彼のうちに見出すでしょう。』

【参考】
 マテオ 17:5「これは私の愛する子、私の心にかなうものである。これに聞け。」
 コロサイ 2:3「知恵と知識のすべての宝は、キリストに隠されている。」

 ・旧約の時代であってもだれでもが、神に尋ねてよいというわけではなかった。

 『神は、すべてに答えられたのではなく、司祭や預言者にだけ答えられたのです』。

【参考】
 列王の書上 22:7〜9「主のみ旨を聞くのに、ここにいる預言者のほかには、だれ一人主の預言者はいないのか・・・・イムラの子ミカヤをすぐ呼び出せ。」



(13) 直接本人に超自然的に告げられることが、第三者の口という人間的な管を通すまでは、それに全き信用をおかないように、また、確信を持たないようにと、神がお望みになる理由とは何か?

 『神は、人間の支配や行為が、他の人によって定められ、また、人間が、通常の理性によって支配され、統御されることを非常に好むからです。』

 ・判事の書 7:11「敵の話していることを聞き、勇気をつけて、敵陣を攻めよ。」

 『ギデオンが、神のお告げについて確信が持てず、臆していたのは、神から言われていたことを人の口から聞くまでは、神がかれを無気力のままにすておいたからでありました。』

 ・出エジプト 4:14〜15「おまえの兄の、あのレビ人のアロンがいるではないか。・・・・私は、おまえの口とともにあり、彼の口とともにいて、どう話すべきかを、おまえたちに教えよう。」

 『神と自分だけで交わりをもとうとするような冒険をせず、人間の指導や意見なしにには、満たされないというのは、謙遜な者の持ち前だからです。』

 ・マテオ 18:20「私の名によって、二人、三人の集まるところには、私もまた、そこにいる。」

 ・聖パウロ・汽灰螢鵐 14:27〜32「−預言者は、二人か、三人が話し、他の人は、それを判断せよ。−」

 『かれらの心の中に神の真理を明らかにし、これを確証することによって、という意味で少なくとも、二人いなくては、なりません。』

 ・伝道の書 4:9〜12「独りより、二人でいるほうがよい。・・・独りの場合は、倒されても、二人でなら抵抗できる・・・・」

 『一人だけならば、神に関してどんなに冷たいままでいなくてはならないであろうか。また、二人なら、真理を知り真理を保つために力を合わせて悪魔に対抗するでしょう。』

 ・ガラツィア 2:2「私が(エルサレムに)上ったのは、啓示を受けたからであった。」

 『人から保証を与えられるまでは、安心することができなかった。』

 『啓示が、神からのものであるとしても、人間は、その啓示およびそれに関することについて誤り得るものです。また、それをなすべき方法について話されないことがしばしばあります。』

 ・出エジプト 18:21〜22「民の中から、神を恐れ、また、能力があり、不正なもうけをしない、誠実な人を選び出して、彼らを民のかしらとして立てるがよい。・・・・」

 『モーゼに有益な勧めを与えたのは、舅エトロであって決して神ではなかった。』

 ・ガラツィア 2:14「私は、彼らが、福音の真理に正しく従って歩んでいないのを見て、みなの前でケファに言った・・・・」

 『神は、できるだけ人間の理性的判断によって、コントロールされることをお望みなのです。但し、信仰に関することは、別で人間的理性や判断に反するものではありませんが、そうしたものを超えているからです。』

 ・マテオ 7:22〜23「天にまします聖父の御旨を果たした人が入る。」

 『神は、彼らに自然の掟と理性を与えられたというだけで、すでに忠告していると言えるので、欠点や怠慢を主はとがめるでしょう。』



(14) 超自然的道によって何かを受け取ることがあるならば、直ちに、はっきりと率直に、全部つつみかくさず霊的指導者に告げることには理由があります。

 ≪3つの理由≫

 ・神の定めた霊的診断をしてくれる人(そうしたことを否認、または、是認することによって解決を与えてくれる人)に話すまでは、確かなものとしてくださらないからです。

 『謙遜な人々にこのようなことがあったとき、良い霊的指導者に告げて後、新しい心の満足と力と光と安心感とを与えられます。指導者に告げるまでは、何か落ち着かず、自分のものとは思われず、告げたときになってはじめて、自分に与えられたような気がするものです。』

 ・人は、霊的赤裸と貧しさという暗夜への道を通して導かれるため、自分に生ずることがらについての教えを必要とします。

 『たとえ、超自然的なことがらを望まないとしても、知らず知らずに、霊的な道において心が、かたくなになり、そうした目にみえてはっきりととらえられることにひかれて、次第に感覚的になってしまうからです。』

 ・我々の謙遜と服従と、抑制のために、すべてについてはっきり告げるのがよいからです。

 『相談したいと思う人が、それをどのように受け取るかわからない、と思うと、告げるのをひどくおっくうに感じられます。しかし、これは、謙遜が足りないからで、素直にそれを言わなくてはなりません。
 また、他の人たちは、自分が聖人に思われるようなことがあるのをいとい、あるいは、別の理由から告げるのを非常に恥ずかしがり、自分自身問題にしないため言うまでもない、と思うものです。
 しかし、自分を抑えてそれを言うだけの謙遜で単純、柔和な心をもって、すぐに打ちあけるようにするならば、後には、それがずっとたやすくなるでしょう。』

 故意に預言の言葉を隠し、霊的指導者にも誰にも告げず、ひたすら沈黙していると、やがて、神からの預言の言葉は、与えられなくなります。これは、特に預言する賜物を授かった人々に対して要注意の事項です。
 預言者同士、或いは信頼のおける指導者に対して、お互いに、謙遜の限りを尽くして、率直に告白すべきでしょう。


 ◇ 注 意 ◇

 『霊的指導者(聴罪司祭)は、超自然的ことがらに関して余り不快な態度を示したり、そうした人々を避けたりさげすんだりする事は、かんばしからぬことです。
 そのために人々は、勇気がくじけて打ちあけなくなり、さまざまな好ましからぬことが、生ずることになります。むしろ、天から受け取る何かのヴィジョンや交わりよりも、愛によるひとつの決意や行いの方が、はるかに価値あるものであることを悟らせて、彼らを信仰の方に導かなくてはなりません。』

【参考】
 『通常、神からの啓示に関しての一般的な確認の方法』

 ― その3原則 ―

1.第一に、聖書の御言葉が与えられること。
  理想は、二つ以上の聖句が与えられ、暗記できる(心に御言葉が刻印される)ことです。
  聖句は、相互に補い合う内容であることが重要です。

2.第三者:霊的指導者、尊敬できる先輩・親友、預言者、神の人などに同じ助言や勧め、同じ聖書の御言葉をいただくことです。

3.周りの環境が、与えられた啓示や御言葉と一致するように方向づけられ整えられることです。


 ≪特 記 事 項≫

 『上記のような体験を持たない多くの人々の方が、実際、そうしたことをしばしば経験した人々よりも、はるかに多くの進歩を遂げています。

 「見ずして信ずる者は、幸いである。」−ヨハネ20:29−

 超自然的なことをことさらに好む者は、信仰について失うところが多いのです。』

 3大徳「信仰と希望と愛」を育み、神の深みに近づいてください。



銀の糸「アストラル・プロジェクション:霊体離脱,幽体離脱」
危険な霊体験の影で操るのは悪霊によることが多い


  肉体から霊が一時的に離れることは、オカルトの世界で『アストラル・プロジェクション』霊体離脱と呼ばれています。
 ローマ・カトリックでは、『バイロケーション』:二箇所の所在と呼ばれています。
 この現象は、カトリックの文献の中で、次のように定義されています。

 「バイロケーション。互いに離れている二つの場所に、同じ実体あるいは魂が、多様にもしくは同時に存在すること。バイロケーションは、聖徒たちの生涯でしばしば報告されている」
 (ジョン・ハードン著 『現代カトリック辞典』 1980年)

 フランシスコ(カプチン)会の、ピオ神父にこのことが起こったという報告があります。彼の両手両足に出血している傷口の 『聖痕』 は、キリストの傷口と同じものであるとされています。
 ピオ神父は、聖座(教皇庁)より列福されました。

 この、二箇所に所在するバイロケート能力、アストラル・プロジェクションを経験している人々は、『 銀のひも 』 と描写していす。

 「その日になると、家の番人は震え、力ある人は身をかがめ、臼ひき女は仕事を休む、・・・ふうちょうぼくは実をつける。だが、人は永遠の家へと歩みをすすめ、泣き女は通りを行き巡る。・・・そのとき“銀のひも”は切り離され・・・滑車:かっしゃは、井戸で壊れる・・・ちりはもとの土に帰り、霊はそれを授けた神に帰る」
 (伝道者の書12・3〜7)

 銀のひもを切り離すとは、死ぬ時に霊と肉体のつながりを最終的にほどくことであると示しています。

 ソロモン王は、東洋の宗教や風習に通じていました。
 事実、彼は晩年、彼の外国の妻たちとともに偶像崇拝をするようになりました。彼は、アストラル・プロジェクション:霊体離脱を経験したであろうと思われます。彼は、伝道者の書:コヘレットの書で、自分は、あらゆることを試みた、と述べています。

 滑車:車輸は、井戸で壊されるとは、輪廻の輪:円環は、黄泉の穴に下った時、死によって壊されることを暗示ています。
 オカルトや東洋の諸宗教は、この輪廻の輪が破られるのは、霊が神:ブラフマンと合体する時だけであると信じています。
ソロモン王が、下した結論は、

 「結局のところ、こうだ。神を恐れ、神の掟を守れ。
 これは、人間すべての義務なのだから。
 神はすべてのわざを、隠された事の善悪をすべて裁かれるからだ。」
 (伝道者の書12・13、14)

 聖書は、「人間が生まれ変わりを繰り返すこと=輪廻転生はない」 と、はっきり言っています。

 「人間には、 一度死ぬことと、死後に裁きを受けることが定まっている」
  (へブライ人への手紙9・27)

 人間が、聖霊の力や神のみこころによってではなく、悪霊の力や自分の意志によって霊の世界と関わりを持つ時、私たちが見たり経験したりするどんなことも悪霊によって支配:コントロールされることになる、ということです。
 ですから、神が特別に許可するのでなければ、魔女が、天使を見ることはないのです。

 「あなたがたの霊と魂と体のすべてが、主イエズス・キリスト来臨の時、責められるところのない者として完全に守られるように。」
 (第一テサ口二ケ5・23)

 ここで聖パウ口は、私たち人間は三つの部分から成る存在であると教えています。
 私たちは、三つの別々の部分:体、魂:意識ある知性、意志、感情、霊 を持っているのです。
 聖パウ口は、この三者すべてが清められ、イエズス様に献げられなければならず、イエズス様が来られるまで、主ご自身によってこの三者すべてが

 『 責められるところのない者として 』

 守られなければならない、と述べているのです。

 「自然の命の体があるのですから、霊のからだもあるわけです。」
 (第一コリント15・44)

 人間の霊は、形を持っており、それは、私たちの肉体に対応する一つのからだです。

 『 霊的エネルギー 』 とか 『 バイブレーション:振動 』

 とよく言われるものは、人間の “ 霊 ” をさしています。
 サタン崇拝者やアストラル・プロジェクションなどに関わる人は、このことに気付いています。

 「私は一人の人を知っています。・・・肉体においてか私は知りません。肉体から離れてか私は知りません。神は、知っておられます・・・このような人が第三の天まで連れ去られました。・・・肉体においてか、肉体から離れてか私は知りません。神は、知っておられます・・・パラダイスの中に連れ去られて、人には話すことを許されていない、・・・」
 (第二コリント12:2〜4)

 「これらのことの後、私は見た。見よ、天に開かれた一つの扉があった。そして・・・あの声が言った。
 『 ここに上がれ。私はあなたに、これらのことの後に起こらなければならないことを示そう 』
 すると、すぐに私は 霊の内にいた。そして見よ、天に一つの御座があった。またその御座の上に座っておられる方があり・・・」
 (黙示録4・1、2)

 これらのみことばは、その人の霊の中で感じ取られた経験を示しており、霊のからだが 肉体から分離されたことを示しています。
 聖ヨハネが、自分は 『 霊 』 の内にいたと言った時、それは自分の人間の “ 霊 ” をさしていたのです。
 これは、「脱魂状態」とも言います。 

 「実に神のみことばは、生きているもの、行うものであり、両刃の剣よりも鋭いものであって、魂と霊、関節と骨髄を切り分けて通り、心の思考と考えを分けるものである。」
 (バルバロ神父訳 ヘブライ4:12)

 人間の魂と霊をなぜ分ける必要があるのだろうか?
 堕落する前の最初のアダムは、自分の霊のからだを使うことによって霊の世界とも関わり、また、それを見ることができました。
 彼が、エデンの園で神といっしょに歩み、神といっしょに話しをすることが容易にできたことによって論証されます。
 彼の魂:意識のある知性と意志が、彼の霊のからだと肉体との両者を支配:コントロールしていました。けれども、アダムが堕落した時、霊的死が起こりました。
 人間が、イエズス様を自分の主、また救い主、として受け入れてふたたび生まれる時、聖霊が入って来られ、私たちの霊のからだは新生し、堕落前のアダムと同じく、主とのコミュニケーションを持つことができるように霊の回復、再生(born again)がされるのです。

 「まことにまことに私は言う。人は、上から生まれないと、神の国を見ることはできぬ。」(ヨハネ3:3)

 「まことにまことに私は言う。水と霊によって生まれぬ者は、天の国に入れぬ。肉から生まれた人は肉で、霊から生まれた人は霊である。」
 (ヨハネ3:5,6)

 「まことの礼拝者が、霊と真理をもって御父を礼拝する時が来ている、いやもう来ている。なぜなら、御父もそういう礼拝者を望んでおられる。神は、霊であるから、礼拝者も霊と真理をもって礼拝せねばならぬ」
 (ヨハネ4・23、24)

 ですから、霊だけが、霊の世界と交わる:コミュニケーションを持つことができ、霊であられる父なる神を礼拝することができるのです。
 私たちがふたたび自分の霊のからだを意識して支配:コントロールするようになるのは、神のみこころではありません。
 それゆえ、御霊の剣:神のことばが、魂と霊を分ける:分離するのです。

 第一テサロニケ5・23は、人間の魂や肉体と同じく、霊もイエズス・キリストの完全な主権のもとに置かれなければならないことをはっきり示しているのは、そのためです。
 人間の霊には驚くべき力や能力が多くあり、霊のからだが、魂の支配下にある時は、特にそうだからです。
 サタンの目標は、人間が、自分の霊のからだをふたたび意識的にコントロールするよう人間に教えることです。
 人間の意志によって自らの霊力を行使することは、サタンの思う壺で、神のみこころに違反します。

 最近、ハリーポッターの魔術や陰明師、指輪物語等が流行しているのは、そのせいです。
 人々は、物質世界を知覚できるように、霊の世界を知覚できるようになります。彼らは、悪霊と自由に話ができるようになり、霊のからだだけ肉体から離すことができ、しかも意識的に知りつつさまざまな場所に行ってさまざまなことを行うことができるようになるのです。

 さまざまな肉体のいやしを起こすことなどもできるのです。
 悪霊がするのと全く同様に、人間の霊も多くの人々に苦しみをもたらすことができるのです。
 人間の肉眼は、霊の世界を見ることができないので、それらの霊を見ることはできません。霊や霊の世界を見ることができるのは、霊だけです。
 神は、ご自身の民がそのようにして自分の霊のからだをコントロールすることを、望んではおられません。
 神により頼む必要をあまり感じなくなり、また、いつもサタンと彼の演出した国を見続けることにもなるでしょう。

 「私に向かって、 『 主よ、主よ 』 と言う人がみな天の国に入るのではない、天にまします父のみ旨を果たした人が入る。
 その日多くの人が私に向かって

  『 主よ、主よ、私はあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪魔を追い出し、あなたの名によって不思議を行ったではありまえんか 』

 と言うだろう。そのとき私ははっきりと言おう、

  『私は いまだかつてあなたたちを知ったことがない、悪を行う者よ、私を離れ去れ 』」
 (マタイ7:21〜23)

 神の愛の掟を守ること、自己の意志で人間の自身の霊や悪霊の力を使ってはなりません。神の御旨により頼むことです。祈ることです。 輪廻転生して生まれ変わったと言う人は、悪霊によって憑依されているか、悪霊からの知識を受け取って、話しています。実際、悪霊は、人間よりはるかに長く生存しており、情報や知識に富んでいます。前時代の他人になりすます事も可能です。


 霊体離脱と憎しみ

 人間の霊に関して、多くの人々に恐ろしい影響力を持っている大きな分野があります。
 それは、サタンは、チャンスがあれば人間に知られないようにその人の霊のからだを使うという事実です。

「自分の兄弟を憎んでいる者はみな、人殺しです」
(第一ヨハネ3・15)

 自分が憎んでいる人を殺そうと物理的に何もしていないのに、どうして憎しみという感情によって人殺しになり得るのでしょうか?
 憎しみは、意識的な罪です。
 ですから、人間が自分の心の中に憎しみが住むことを許すなら、憎しみによって、人間の生活の中でサタンに正当な根拠を与えることになります。 
 戦争は、憎悪の極みに満ちた罪の具現化です。
 あなたがだれかを憎むならあなたが憎んでいるその人を攻撃するために、サタンが入り込んであなたの霊のからだを使うことができるのです。
 このような攻撃は、あらゆる種類の病気、事故、精神障害、さらには肉体の死さえももたらすことがあります。

 呪いや呪術がそうです。
 この憎しみを抱く人は、サタンが自分の霊のからだを使っていることには決して気付いていません。憎まれている人は、自分の問題が本当はどこから来ているのか、全く思い当たりません。

 ですから、主イエズスは、

 「互いに赦し合いなさい。」

 と、何度も命じておられるのです。赦すことは憎しみを止めるのです。
 自分の心からどんな罪も取り除いて清めていただくよう、いつも主に願い求めるべきです。
 主イエズスに、からだ・魂・霊の三つすべてを清めていただき純粋に保っていただくよう十分注意していなければならないのです。

 「私に純粋な心を創ってください、神よ。そして、堅く立てられた霊を私の内で新たにしてください」
 (詩篇51・10)

 「清い心をつくり、新しい確かな霊を与えたまえ。御前から私を退けず、聖なる霊を私から奪わず、救いの喜びを返し、寛仁な霊をもって私を支えたまえ。」
 (バルバロ神父訳 詩編51:12〜14)

 ダビデの心にあった罪が、彼の霊にも影響を及ぼしていたことが明らかです。
 説明のつかない病気を持った人々がいました。彼らは明らかに肉体が病気でしたが、どんなに医学の検査をしても解明できませんでした。
 彼らの場合、最終的な答えが来たのは、多く祈ることによってでした。彼らは、一人かそれ以上の人々による激しい憎しみの対象になっていました。
ただ彼らに“油”を塗って聖別し、人間の霊による、憎しみを通してのすべての攻撃に対する特別な守りを祈り求めるだけで、彼らのいやしをもたらすに十分でした。
 あなたの問題が憎しみのためかもしれない、と思われるなら、あなたの

 「霊と魂を霊の世界の攻撃から断ち切ってください」

 と、主に願い求めてください。だれが自分を憎んでいるのかを完全に知る必要はありません。主が知っておられます。ただ、憎しみに対する特別な守りを求めてください。



【 参考文献 】

 エターナル・ライフ・ミニストリーズ発行 レベッカ・ブラウン著「サタンのわな」
 日本聖書協会発行「聖書 ( 口語訳/新共同訳 ) 」・他

十字架の聖ヨハネ著「カルメル山登攀」奥村一郎氏訳/ドン・ボスコ社発行

バルバロ神父訳 「聖書」(講談社)

マリア・ワルトルタ 著 『 時の終わり 』 日本語翻訳版(抜粋)
 マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋 世紀末の黙示録

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著者:baramado
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