スウェーデンボルグの見た死後世界とカトリック教義の共通点 ─ 「剥脱:ヴァスタチオ」 ─ 死後、霊界の人間は、心の状態が表出して霊体を形成、思考と言葉、意図と行動は、一つとなる


スウェーデンボルグの見た死後世界とカトリック教義の共通点


エマヌエル・スウェーデンボルグについて
 スウェーデン生まれ[1688〜1772]、鉱山技師、科学者、国会議員。
 55歳から霊界書を執筆。科学者としての見地から著作。
 原子論;エネルギー理論の先駆、物質の根源を非物質「力」「運動」ととらえ「原初の自然点」と呼ぶ。
 宇宙論;独自理論を霊界構造に適用。
 生理学;大脳皮質機能の局在性。
 心理学;無意識層の分析、夢・神話の意味を探求。
 ・肉体は霊魂のもっとも外側の部分
 ・永久に朽ちない霊魂と霊の身体
 ・現世 (自然界) ⇔ 来世 (霊界)
 ・人間は心臓拍動停止後3日 (72時間) で生前の意識を取り戻す。
 ・霊界と自然界は、見かけ上の概観相似。
 本質的違いは、霊界に存在するものはすべて霊的で、自然界にあるもののように固定されていない。
 ・霊界の人間は、独自のスフィア(霊気,霊域)を有し、その人の周囲の霊的事物を生み出している。
  霊界は、霊魂 (アニマ) の状態を自分の外部 (周囲) に生きた表象物とする。
 ・霊界の人間は、自分の思いや願望をそのまま瞬時に外部に表出し、空間と時間に制約されない。
 ・霊界は、本質的に空間と時間という隔たりはない。
 ・かわりに霊界には、生命の状態と状態の変化がある。
 ・人間の霊の想念や感情が瞬時に霊自身の周囲に反映 (照応) する。
 ・霊界と自然界とは、不連続な階層と照応によって関係している。
 ・自然界は、霊界の固定した複製 (レプリカ) であり結果、後在世界。
 ・霊界は、自然界の原因根源で先在世界。
 ・霊界は、生命・力・エネルギー・生動異次元宇宙を構成し、自然界を内部から不断に維持している。エントロピーの法則の本質的派出源。
 ・霊界と自然界との関係だが、両界は「連続的な階層」 (gradus continui) ではなく、「不連続的な階層」 (gradus non continui) ないし「照応」 (correspondentia) によってつながっている。


霊界:天界と地獄 ─ 善悪の力のバランスについて

 ・霊界の人間は、生前形成した心のあり方に応じて、天界又は地獄のいずれかの世界に住み分かれる。
 ・輪廻転生は、存在しません。
 ・霊界は、他の霊も住んでいる秩序ある社会を構成しています。
 ・霊界の人間は、望みや考えを隠すことができない。
  思考と言葉、意図することと行動は、必ず一致します。
剥脱:ヴァスタチオ
 ・霊の世界における人間は、霊の本性をあらわにします。
 ・この世の人間は、悪意や憎悪を心に抱いても言葉や行動で隠し、善意や愛に見せかけることができるが、霊界では、心の状態が表出します。
  つまり、霊魂の思考そのものが身体となり周囲の事物を形成します。
 ・「優勢となった愛」が、人間の真の本性を決定します。
 ・「神への愛」,「隣人への愛」 ⇔ 「世俗愛」,「自己愛」
 ・世俗愛:富・名誉・地位への執着する心。
 ・自己愛:自分のことしか考えないエゴイズム。

 ・ある幻視者に言ったイエズス・キリストのメッセージには、
 「神は、愛であるがゆえに人間の思いやイメージを尊重する。生前地上で熱心に信仰した宗教のイメージを崩すことなく来世に表出します。その人の人格を尊重し、仏教徒なら極楽浄土の世界観を神道なら高天原の世界観を壊さずに天界を表出して形成させます。
 しかし、至福直感の恵みを得られる人は、キリスト教のみです。」

 至福直感とは、神ご自身を直接見ることのできる天界の本質・本性を共有することで愛の根源なる創造主と人が、一致することです。
 至高の神は、天界の光の根源であり、光によって派生し映る投影物なる天界を構成するのが、天使・人間です。
 天界は、大きく9階級に分かれた階層を持っています。
 宇宙の形は、人体を投影しており、神の似姿として作られたのが、人間です。

 ダンテ・アリギエリの 「 神曲は、このことを真に的を得て表現しています。

 ・「剥脱:ヴァスタチオ」:霊の世界では、隠し立てができないため心の表層にあるものは、剥げ落ち、心の内奥:本質が表出します。
 ・煉獄:善人から外面的な悪が、徐々に剥がされ、浄化、鮮明に精錬され、聖人となって ⇒ 天国へ
 ・霊界の人間は、本人の愛と自由意志によって自らいちばん心地良い居場所を決め、善人は、天界へ、悪人は、地獄へ向います。自らの意志でどちらかを選ぶのです、中間は、ありません。
 ・天界こそ人類が地上に生まれることの最終目的です。
 ・天界に入るには、謙遜に自分を他人よりも劣る者とし、隣人への愛や善を優先し、自己犠牲をすることです。
 ・富や結婚が、天国へ入る障害にはなりません。
 ・敬虔や祈りや清貧や禁欲は、手段であり目的ではありません。
 ・人は、謙遜と善への生き方をする生命のゆえに天国に入ります。
 ・愛や善の実践を軽んじ実社会から離れた寂しい生活を送るなら、霊界でもやはり荒野のような所に住むことになります。
 ・地獄の悪しき霊たちは、自ら望んで自分の最も居心地の良い世界に飛び込みます。
 ・地獄は、自己愛と世俗愛の世界で、憎悪、復讐、殺意、強盗、虚偽、詐欺、姦淫、不節制、虚栄、怠惰などあらゆる悪によって構成される社会です。
 ・地獄の霊たちもひとりで生きられません。
 ・地獄社会は、エゴイズムとエゴイズムが、支配と被支配を繰り返し、悪人同士が悪で悪を罰し合うところです。疲れと乾きを知らない悪へとつき動かされます。



エマヌエル・スウェーデンボルグの主な著書
 「天界と地獄」,「霊界日記」,「天界の秘儀」
 エマヌエル・スウェーデンボルグの宗教観は、カトリックの教義に似ているところも多々ありますが、そうでないところもあります。
 どこからずれたのか?
 そう言う意味においてお薦めは、しません。
 ただし、霊界の形相を理解するうえで示唆に富んだ内容は、吟味して良い所もあります。

注意:エマヌエル・スウェーデンボルグの著書の訳出には、煉獄は、存在しないと言う説明がなされていますが、煉獄:炎による浄化=「剥脱:ヴァスタチオ」となんら大きな差異はありません。
 煉獄に関する詳細な説明は、ここでは避けます。
 詳細は、こちら ⇒ 「 煉獄とは? 」

 生前クリスチャンだった者は、本来天国に直行できるはずですが、直接天国に行かれない場合、霊の世界で不完全な汚れを完全に浄化するまでの場所:状態であり、その時間的な隔たりは、非常に苦しく感じるものです。

 また、彼の預言の中で最後の審判と新しい教会の誕生は、1757年に到来する予定だったとされます。
 しかし、実際に到来しなかったと言うことは、幻視や霊界を頻繁に行き来する間に悪霊の影響によって惑わされたと考えるのが自然でしょう。
 そのため、彼の追随者たちの多くは、異端や悪魔礼拝と考えられる霊的な世界と接触しています。
 例えば、交霊術、降霊術:アラン・カルデック、神智学、ニューエイジ文化のチャネリング:アリス・ベイリーなどです。

 一見、霊の世界は、錬金術同様 単一の単純な世界かのように思われますが、複雑であり、危険であり、悪霊も存在し、天使のふりをして介入する世界ですから、人間側から能動的に霊界をさ迷うことは、聖書においても禁じています。
 禁じられた行為を行うことは、悪魔に惑わされる可能性が、非常に高いのです。
 特に降霊術やチャネリングにおいて死者や天使の霊が、現れたり接触する場合、悪魔が、姿を変えて真似ていると考えるべきです。
 神の戒めを守り、禁じられたことは素直に行わないことです。
 エマヌエル・スウェーデンボルグは、その点で、神の掟を破ってしまったとも考えられます。

 その理由は、カルメル山登攀(十字架の聖ヨハネ著)をひと通りお読み下さい。
 参考までに、このブログにある「 ヴィジョンの危険性 」をお読み下さい。



 【 参考文献 】
 バルバロ神父訳「聖書」(講談社)
 天界と地獄を旅した男/高橋和夫(文化女子大学教授)著






トマス・アクィナスの神学大全とルドルフ・シュタイナー思想の相違点 ── 「 転生 」 の問題

 
「 トマス・アクィナスの神学大全 スンマ:Summa theologiae 」



アナロギア:比例、類比、類似(性) トマス・アクィナスの言葉
 これは、スウェーデンボルグの 照応(反映)と同じ意味の言葉と言えます。
 霊界に存在している事物の照応が、現世に存在している自然界(と人間)の形容に類似性を見いだすこと。
 レオナルド・ダ・ヴィンチは、「類比」と言う言葉を用いて表現 していますが、意味合いは、アナロギアと同じと言えます。
 例えば、人間の身体をめぐる血管と類比している自然界の事物には、山脈から流れ出てくる川の支流から本流、あるいは、植物の葉の葉脈、樹木の根など、造形や働きが、類比しています。
 
存在のアナロギア:無限なる神の存在と有限なる被造物の存在との間で成り立つ比例法則。
 自然界の宇宙に存在される被造物を超越して存在させるいかなるものにも存在しない被造物の原因(霊界)される「在る=神」との関係を言います。

 神:無限の存在 = 本質の存在 被造物 : 有限の存在

 プラトンの命題「本質によるものは、分有によるものの原因」

 神学大全(スコラ哲学)と言うと仰々しい小難しさを想像しますが、思考原理は、至って簡単で、小学校の子供たちがよくする問答形式と言えます。
 証明方法は、算数や理科と同じく、弁証法や演繹法の文章化と言えます。
 四則演算の代わりにアナロギアをもとに神学(霊学)を発展させていきます。 また、神から与えられている認識能力の「理性」に基づきながら理性を超える恩恵 ( = 恩寵:グラチア ) の「信仰」の話しを展開します。

 例えば、目に見える一個のリンゴの実体と存在は、取って、食べて初めて理性的に認識できます。
 取って、食べるまでは、リンゴとして見えていても、実際には、リンゴではないかも知れない。 しかし、リンゴの存在は、目で見えた時点で「リンゴ」だと認識します。 目に見えない世界の存在と実体を証明することは、目に見えようと見えまいと、そこに「ある」ことにおいては、信仰と同じで、リンゴの実体を享受するのは、取って、食べない限り、実際にリンゴか、どうか、わかりません。

 信仰を裏付けるのは、目に見えない霊界が、在ると信じて認識することと、「取って、食べる」行ないと言えます。 その味わいは、五感の個人にもよりますが、霊界自体の良し悪しにも関係します(霊界の状態は、その人の状態と関係します)。
 自然神学(哲学的神学)と啓示神学は、言葉によって展開されます。 聖書(サクラ・スクリプトラ)の聖なる教え(サクラ・ドクトリーナ)は、こうして証明(論拠)され、成立します。

神の知:人間が、神について知りうること。
 限りなく神が、有している知と、一致すること。理性によって得られる神の知と啓示を通して得られる神の知は、超自然的な神の知と言われ「恩恵」を意味します。
 「恩恵」は、信仰そのものです。
 啓示神学は、神の恩恵の上に成り立ちます。 この世に人間が生まれてくる時、生まれることを決断した記憶は、ありません。 科学的に自然発生でありますが、自然そのものを神の恩恵と考えるならば、宇宙の森羅万象は、神の恩恵となります。

 神の知は、信仰によって自らの意志をもって決断するところから第二の「誕生」が始まります。
 神の啓示を受けるか否かは、各自の責任となります。
 受け入れた者には、「永遠の生命」が、約束され、
 拒絶した者には、「永劫の拒絶」(永遠の死)が、課せられます。
 啓示された神の知を真理として受け取る根底には、既に何らかの方法で神を知っているからに他なりません。

信仰のアナロギア:存在のアナロギアがあるがゆえに成り立ちます。
 神と人間との間に成り立つ関係であり、どちらかの一方的な関係ではありません。
 「神の知」を与える神と、真理として受け取るか、拒絶するか、決断を迫られる人間との間に成り立つ受け答えの関係です。
 これを比喩的に “ 愛のキャッチボール ” と言えます。
 人間が、勝手に造り上げた神でもなければ、神が、人間をロボットや奴隷の如く造ったのでもありません。
 自由意志と言う価値判断を神のに姿に比例して選択の余地を既に与えられていることは、啓示神学の根底を成しています。

自然理性による「神の知」:自然神学、第一階の土台
  啓示と信仰による「神の知」:啓示神学、第二階の土台

 信仰は、理性を土台としますが、理性を否定することなく、理性を超える「神の知」を受け取るがゆえに、理性の及ばない高い次元から理性を照らします。
 
『 完全なる神の知 』は、天国=神の本質を直観することにおいて、
「 顔と顔とを合わせて 」 神を見る時にはじめて理解します。

 その時、永遠なる「神の知」が、霊魂となった人にすべて流入し、人間の完全なる救済の完成となります。
 神が有する知と神について人間が、有する知は、完全に一致します。
 神と人が、一致することは、結婚の奥義・秘儀と比例します。

神を直観する至福なる者(聖人)たちは、神を通して「神の知」を見ます。神そのものになるのではなく、神の栄光の光を反映(反射)させます。 神の内にあり、神の写し、鑑(かがみ)、として、似た者となります。


神論・人間論・キリスト論の三部構成

 第一部:神を中心に人間は、神から「出てくる者」として考察される。始まりのみなもと。

 第二部:人間を中心に神は、人間が「戻ってゆく者」として考察される。終局。

 第三部:人間が神に戻る道=人間なるキリストなる神=人間を神のもとに連れ戻すためにそそがれる恩恵。

  キリスト教 と ルドルフ・シュタイナー人智学 との大きな相違点は、まず 輪廻転生の 有 無 と言う点で、 聖書では、輪廻転生がない と、はっきり否定しています。 仏教の創始者 仏陀(釈迦)でさえも、 『 復活はある 』 と言った けれども、 『 輪廻転生はある 』 とは言わなかった。 なぜなら、釈迦族は、古代イスラエル民族の失われた十支族だった可能性が、非常に高いからで、その歴史的証拠は、多数残されています。

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■ 収録内容:釈迦、そして仏教のレゾンデートルが解き明かされる(レゾンデートル:存在理由)
 失われた10支族の末裔であり、古代セムメーソンであった釈迦。釈迦はイエスの雛形。釈迦は絶対神の存在を知っていた。釈迦を導いた梵天 ブラフマー。釈迦はシャンバラに入ったのか。シャンバラより現れるヴィシュヌの化身カルキ。釈迦の予言 
 「仏教は必要でなくなる時が来る」
 収録時間:81分52秒 収録日:2012年11月17日(土)


ルドルフ・シュタイナー [RUDOLF STEINER] (1861-1925) ,彼の思想
 クロアチアクラリュベックに生まれ、スイス・ドルナッハで没した。ウィーン大学哲学科を卒業、1897年ドイツ神智学協会加入。

・1908年、『神秘主義としてのキリスト教』−イエズスの言葉と生涯とを異端的に解釈、他宗教に対するキリスト教の優越性を説きました。
 ブラヴァッキーの後継者ベサントと対立し、神智学協会を追われました。
 1913年、人智学協会新設し、ドルナッハにゲーテアヌムを設立。 多方面にわたる文化芸術活動の拠点となりました。

・超自然の精神世界の宇宙的叡智の獲得には、天上の存在と力にまで自らを高めなくてはならない。
 見えざる超感覚的世界にあって、地上にある四つの段階に対応しています。
 それは、「鉱物、植物、動物、人間」です。
 高次の知識を得るためには、「内的浄化、自己制御、正しい生活」が、本質であり、唯一の指導者は、キリストです。

・個人の発展は、 エーテル体、アストラル体 となって浄化されます。
 霊界に入る度に自我は、精神的ヒエラルキー ( 天使位階、天界のヒエラルキー 『 天上階序論 』 を著述したのは、「 聖ドニ=聖ディオニシウス・アレオパギタ 」 です。 ) 的異端解釈の過程で7つの段階があり、シンボル的に惑星と一致します。 自我は、新しい直観力を得て転生します。 シュタイナーの論ずる 転生 は、誤謬 です。  “ 輪廻転生 ” と言う思想は、悪魔によって考案された悪魔側の思想です。


新・旧聖書の教えやカトリックの教義、霊的戒めによれば、自ら能動的に霊界に入ることを禁じています。 また、精神的ヒエラルキー7つの段階とは、チャクラやカバラのセフィロトの考えにも類似しており非常に危険な行為です。
 繰り返し言及しますが、聖書や預言者、イエズスの言葉、カトリックの神秘家、ヴィジョナリーによれば、 『 転生はない 』 と断言しています。 しかし、肉体を伴った 『 復活 』 は、 「 最後の審判=公審判 」 にあります。 仏教を説いた 釈迦(仏陀) も、 「 復活はある 」 と言ったのであって、 「 輪廻転生がある 」 と言ったのではありません



【 参考文献 】
バルバロ神父訳「聖書」(講談社)
世界の名著「トマス・アクィナス」/山田晶翻訳(中央公論社)

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著者:Joanne del apocalypse
▼URL「大警告」&「ヨハネの黙示録」
http://lifesavior.jugem.jp/
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ダンテ・アリギエリ DANTE ALIGHIERI 霊の世界を解説する重要参考書 『 神曲 』 の要点

ダンテ・アリギエリ
DANTE ALIGHIERI(1265-1321)

 
 1265年フィレンツェ、バディア街アリギエリ家に生まれた。 9歳の時、フォルコ・ポルティナーリの娘、ベアトリーチェにはじめて出会った印象があまりに強烈で神秘的慟哭を覚え、詩人ダンテに ≪ 私の精神の中で輝く女性 ≫ :霊感を与える女神として登場する。 1290年ベアトリーチェが他界すると、ダンテは、激しい衝撃を受け、その後間もなく『 新生(1293-1295) 』が著作された。 フィレンツェの政治に深く関与したダンテは、白党グエルフィ派の一員だったが、黒党ギベリン派との政争に巻き込まれ、追放の刑を受け、生涯亡命生活と放浪の旅する詩人となった。 詩人ダンテが、広大な知識と神秘的詩作を残したのは、その亡命生活においてで、主要な著作 『 俗語論 』 、 『 饗宴 』 、 『 神曲(1306-1321) 』 、 『 帝政論 』 などを残す。
 1321年、ラヴェンナのグィード・ダ・ポレンタの任命を受けてヴェネツィアへ大使として赴くが その帰途 9月13日の晩客死し、遺体は ラヴェンナのサン・フランチェスコ教会に埋葬されている。
 霊界の重要参考になる 『 神曲 』 は、壮大な詩として地獄煉獄天国(天界)至高天に至る旅路をうたい、ダンテは繰り返し神から託された任務について述べる。 その内容は、個人、市民、宗教的共同体に妥当な救済の過程を示す魂の浄化方法や栄光の道、罪の結果を知ることも許されたと言及する。
 これによく酷似した文学が、1264年にカスティリャ語に翻訳されたイスラム教 『 ムハンマドの階梯の書 』 と言われる。 同様のテーマを中世に広く普及していた作品は、他に 『 エノク書 』 、 『 聖パウロの幻視 』 、 『 アルベリコの幻視 』 、 『 トゥンダロの幻視 』 、 『 聖ブランダン航海記 』 、 『 天のイエルサレムとバビロニア 』 などとされる。

 『 神曲 』 は、地獄編、煉獄編、天国編の三編に別れ、各編は 100行をややこえる33の歌によりできている。 11音節3連句構成の詩で、約1307年から一生を通して制作されたと考えられる。
スカラのカングランデに宛てた手紙から 「 喜劇:La Divina Commedia 」 と呼ばれていた。 ラテン語ではなく、トスカーナ地方の方言で執筆され、多くの人に読まれ、この詩篇は罪人と神の対話形式で綴られてある。 詩は、寓話や道徳の隠喩に富んでいる。
 登場するローマの詩人ヴェルギリウスは、ダンテを地獄界と煉獄界の案内人であるが、彼は道徳的な知恵を伴った理性とダンテ自身の良心の声を象徴しており、また、ダンテに愛されたベアトリーチェは、天国界の案内人であるが、彼女のみが 神のみ前に導くことのできる啓示を受けたキリスト教聖人たちの最高知識を象徴している。

注目に値するのは、錬金術などと同じように、天国界が 「 九つの半球( = 九天 ) ─ 10 圏 」として存在していることです。

1. <地上天国:> から
2. <第一天:月;剛毅>
3. <第二天:水星;正義>
4. <第三天:金星;節制>
5. <第四天:太陽;慎重>
6. <第五天:火星;信仰>
7. <第六天:木星;希望>
8. <第七天:土星;愛>
  ヤコブの梯子
9. <第八天:恒星;マリアの勝利の祝宴>

 至高天に昇る前に、聖ペトロ、聖大ヤコボ、聖ヨハネが、良きキリスト者の証しとして「信仰」,「希望」,「愛徳」についてそれぞれダンテに尋問する。

 「 愛はいつまでも絶えることはない。 ・・・ 今あるものは信仰と希望と愛である、そのうちでもっとも偉大なものは愛である。 」 ( 聖パウロのコリント人への手紙 13:8,13 )

 ダンテの『 天国編 』 第25歌 83,84 は、 「 棕櫚の葉を受けるまで、私を去らなかったこの徳(希望)に対して、私はいまなお愛の火に燃えているが、 ・・・ 」 このことから、天国へ来るということは 実際に合い間見えるようになるから信ずる必要はなく、信仰はなくなり、また、至福の中に存在し、永遠に持ち続けることになるから希望もなくなる。 ゆえに天国では ただ、愛だけが続き、永遠に存在する。

・「信仰」とは何か? と、初代教皇( 父:パパ )聖ペトロが問うと、
 「 希望するものの保証であり、見えないものの証拠である 」 (ヘブライ11:1) を引用してダンテは、 「 偉大な戦士の御前で私に発言を許し給う聖寵よ、 ― なにとぞ 私の考えに明らかな表現を授け給え、 ― 父( 聖ペトロ )よ、あなたと共にローマ・カトリックを正道に導いた尊い御兄弟( 聖パウロ )が 真理のペンよりお書き残したごとく、信仰とは 望みの実体であって、まだ見ぬものの論証であります、これが 信仰の本体であるかと思われます 」 ( 『 神曲:天国編 』 第24歌 52〜66 )。 続けてダンテは、実体と論証を引用する理由を弁証し、「 霊界の天上にまします霊の姿やわが目に映るあまたの深遠な事物は、下界ではまったく姿が隠れ、なにひとつ見えませぬ。 下界では、かような事物の存在はひとえに信仰より由来し、偉大な希望は、その信仰を基( もとい )として上に建ちまする。 それゆえ信仰は、実体の性格を映します。 そして、私どもは 他のものを見ずに信仰からはじめて 三段論法を成し遂げねばなりませぬ、 それゆえ信仰は、 論証の性格を現わします ・・・ 」( 『 神曲:天国編 』 第24歌 70〜78 )と答える。

・「希望」とは何か? 「希望」はどこから来たか? と聖大ヤコボが問うと、
 「 永遠の命と必要な恵みを必ず与えてくださることを深く望むこと 」( 公教要理 )のごとく、ダンテは、「 希望は、未来の栄光を疑う余地なく 待つことと その期待は、神の恩寵 と 人間のその時までの功徳とに由来します。 ・・・ 『 聖名を知るものは あなたによりたのむ 』 ( ダビドの詩篇 9:11 ) わが同胞の信仰者に聖名を知らぬ者、誰かおらんや? ・・・ 」 ( 『 神曲:天国編 』 第25歌 67〜79 )と答える。

・「愛徳」とは何か? 「愛に引きよせるもの」は何か? と福音史家聖ヨハネが問うと、
 「 我らが如何なるものよりも、また、自分よりも天主を愛し、天主に背くよりは、むしろ死ぬ方が良いと思うこと。 また、天主のために他人をも自分のように愛すること。 天主を愛する理由は、限りなき善良にして完全なる御方である天主ご自身を人間が自発的に愛することを望まれた、人間に絶えず偉大なる恩恵を賜っておられ、死後には 一層、偉大なる恩恵を与える約束をされた、人間がどれほど徳を積みどのような善行を行っても天主を愛する徳がなければ救霊はできない 」 ( 公教要理 ) のごとく、ダンテは、「 ・・・ 善は、善であることを理解される限りは、たちどころに愛の炎を点火します。 善が完全に近ければ 近いほど、その力も大きくなります。 そのため、真実を見てとる本質たる知性は 愛にうながされ、近づいてくれます。 これらの真理を私に理解させてくれる人は、あらゆる存在のはじめなる永遠の愛を私に示してくれた人でした。 ・・・ 『 私は、ゆるそうと思う者をゆるし、あわれもうとする者をあわれむ。 』 ( 出エジプト 33:19 ) ・・・ 人間の心を神に向けさせるだけの力を持つもの、世界の存在や私自身の存在が 神を愛するようみな相和して助けてくれます。 キリストが甘んじて受け入れた死、希望の賜物である永遠の命と天国、 ・・・ 神が授け給う慈愛の大きさに応じて 私は愛します 」( 『 神曲:天国編 』 第26歌 28〜66 )。

10. <第九天:原動天;>
11. <第十天:至高天;神の御座 恍惚と陶酔>

 各天界はそれぞれの才能を持つ霊魂がいわば働いているとされ、中世の錬金術,占星術(天文学)の法則に従い、各天球の働きが地上生活にすぐに影響を及ぼすとされる。


地獄界もまた、同様に同心円状に九圏に別れて存在するが、最も深淵にある第九圏;「 コキュートス 」について述べる。

 第一圏谷 リンボ( 黄泉;洗礼を受けなかった者 )
 第ニ圏谷 好色、肉欲の罪
 第三圏谷 大食の罪
 第四圏谷 貪欲、吝嗇、けち、濫費家
 第五圏谷 憤怒、怠惰、ねたみ( 嫉妬 )、傲慢
 第六圏谷 異端者、
 第七圏谷 第一円 暴力、同胞殺人者、
        第二円 自殺者、
        第二円 自然を犯した者、同性愛者、神を侵犯した者、高利貸

 第八圏谷 10分割の濠マレボルジェ(鉄灰色の石);女衒、姦通者、聖職売買、
    占い師、詐欺師、偽善者、泥棒、偽忠告者、不和・分派活動者、偽造者、嘘つき

 巨人の穴

 第九圏谷 裏切り者の地獄:「 コキュートス( Cocytus ) 」嘆きの川と呼ばれる氷地獄。
    同心の四円に区切られ、最も重い罪、裏切を行った者が永遠に氷漬けとなっている。 裏切り者は 首まで氷に漬かり、涙も凍る寒さに歯を鳴らす。 最下圏。 円の中心にはルシファー(サタン)がいる。

 第一の円 カイーナ Caina :肉親に対する裏切り者、旧約聖書の 『 創世記 』 で弟アベルを殺したカインに由来する
 第二の円 アンテノーラ Antenora :祖国に対する裏切り者、トロイア戦争でトロイアを裏切ったとされるアンテノールに由来する
 第三の円 トロメーア Ptolomea :客人に対する裏切り者、旧約聖書外典 『 マカバイ記 』 に登場する裏切者トロメオに由来か?
 第四の円 ジュデッカ Judecca :主人に対する裏切り者 、イエズス・キリストを裏切ったイスカリオトのユダに由来する

 地獄の中心 ジュデッカ のさらに中心、地球の重力がすべて向かうところには、神に叛逆した堕天使のなれの果てである魔王 ルチフェル( サタン )が 氷の中に永遠に幽閉されている。 魔王は かつて最も美しい熾天使( セラフィム )であったが、今は醜悪な三面の顔を持った姿となり、半身をコキュートスの氷の中に埋められていた。 魔王は、イエズス・キリストを裏切った イスカリオトのユダ 、カエサルを裏切った ブルートゥス 、カッシウス の三人をそれぞれの口で噛み締めていた。 二人の詩人は、魔王の体を足台としてそのまま真っ直ぐに反対側の地表に向けて登り、岩穴を抜けて地球の裏側に達する。 そこは 煉獄山の麓だった。 ・・・

 ダンテの 『 神曲 』 に啓示された霊界の信憑性は、重要と見られる。 多くの共通した霊的状態( ヴィジョン、環境や働き、影響 )といったものが、他分野でも異口同音に表現されており、カトリックの教義的にも裏付けられる点が 多々見受けられる。


第十天:至高天(第十圏)
 はじめの天:「 創世記1:6〜8 」、原始天 あるいは、「 不動の原動因( アリストテレス ) 」とも呼ぶ。 至高天 = エンピレオ( Empireo );トマス・アクィナスの 『 神学大全 』 、ギリシャ語の “ < enpir > = すべて炎 ” に由来する。
 ゴシック建築のバラ窓に表現され、完全な霊的創造物にのみ入場可能な純粋な光輪とされ聖なる愛と無限の慈悲の構成を象徴している。 『 神曲 』の「 天国編 30〜33 」
 ダンテは、ベアトリーチェに導かれ至高天に着くと、まばゆい光にしばし見ることができず、やがて花咲く岸辺の間を流れる光の川に佇んでいることに気づき、至高天は 「 白い薔薇 」 の形だと理解する。 天上の女王( 聖母マリア )は、薔薇の頂点にいて光と無数の天使に包まれおり、聖ベルナルドゥス( ベルナール )は、ダンテが 神を直視できるよう聖母にたすけを請う執り成しの祈りをする。 こうして、ダンテは、至高天の光 と 感動 と 啓示の中で 「 太陽と星々を動かす愛 」 を示される。
 神秘主義者たちは、神の至高の座を同様に表現しており、例えば、イブン・アラビー著作 『 幸福の錬金術 ( 1200年頃 ) 』 によれば、「 完全な信者が 惑星天 を越えて 『 終末の薔薇 ( 蓮 ) 』 に到着し、四つの川に向き合う。 四つの川とは、コーラン、トーラ( 律法 )、詩篇、福音書 である。 聖人や至福者の霊魂が住み、光の霊気に包まれ、天国に入ると その後 無数の天使に迎えられ、天国の真の意味、天上の愛の味わい、至福、普遍的慈悲、その他の神秘の意味を理解する。 すべて理解すると、やっと神の玉座 と それを支えるものたちを見ることができる。 」


太祖アダムの年齢から人類の推定歴史年齢
 太祖アダムが ダンテに言う、「 ・・・ さあよいか、息子よ、木の実を味わったというだけではあのような追放( エデンの園追放のこと )の原因とはならなかった、限界を勝手に超えた( 掟を守らなかった;神と同等のものとなろうとして誘惑に負け 高慢の罪を犯した )という点が 問題なのだ。 君の夫人( ヴェアトリーチェ )が ヴェルギリウスを動かしたあの地( 辺獄 [ リンボ ] ;黄泉・陰府 )から この天国の集いに思いこがれつつ私は 4,302年 を過ごした。 そして、私は、地上にいた間に、太陽が 930回( 創世記5:5 ) その軌道にあるすべての上に帰るのを見た。 ・・・ 」 より推測すれば、
 イエズス・キリストが 黄泉に下って、福音を伝え、太祖たちを悪魔の牢から救い出し、天国に引き上げるまでの期間 4,302年 + 地上での一生涯 930年 をたすと、
 5,232年となる。
 イエズス・キリストの十字架磔刑を − 西暦30年頃 とすると、
 5,202年となる。
 + 現在西暦 2013年 をたすと、
 太祖アダムの創造から現在までの歴史年代は、
 7,215年となる。
 ダンテが 記した数値は、中世歴史家エウセビウスの説を引用した と言われている。




【 参考文献 】
バルバロ神父訳 「聖書」(講談社)
アンドレーア・アロマティコ著 「錬金術」/種村季弘 監修(創元社)
「天国と地獄の百科」著者:ジョルダーノ・ベルティ/翻訳:竹山博英,柱本元彦(発行:株式会社原書房)
世界の文豪叢書「ダンテ」翻訳:田中英道・田中俊子(発行:株式会社評論社)
世界文学全集第一巻 ダンテ「神曲」 翻訳:平川祐弘(発行:河出書房新社)

マリア・ワルトルタ 著 『 時の終わり 』 日本語翻訳版(抜粋)
 マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋 世紀末の黙示録

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著者:baramado
▼URL 薔薇窓「大警告&ヨハネの黙示録」
http://baramado.jugem.jp/
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人は、二度生まれる。一度は、存在するために生まれ、もう一度は、生きる目的を見つけた時生まれる。 ─ レゾンデートル≪存在理由≫ 心が漂流している人達へ ─ 臨死体験をした一人の男の物語

心が漂流している人達へ

─ 臨死体験をした一人の男の物語 ─
再び戻って来たその男の人生は、一変していた ─ 神の御旨を知る方法



質 問:あなたは、使命感と情熱を持って人生を歩んでいますか? ただ、ぼんやりと生きていませんか? 社会の巨大な渦になすがまま流されていませんか? 自分の人生の目的や、生き甲斐が何なのか、まだはっきりとつかみきれていないため、幸せを実感していないのではありませんか? この世の何かに取りつかれ、執着し、脱出したいのに、自制したいのに、心の弱さゆえに、中毒患者のようになっていませんか?

 ヒント:ファーストインスピレーションを大切にし、創造的、建設的なイメージを常に持ち続けます。 口から出るあなたの言葉は、あなた自身の一部です。 発せられたその言葉、ゆくゆくは、責任や犠牲、いつか神の前での弁明が伴います。 今日一日の仕事・健康・将来について良い意向と、希望を持って話 (告白) します。 悲観的自己投影ではなく、成長・良い面に注目し、ポジティブイメージを育み続けます。 健全(善)な思考と、心を養う努力をします。

 役に立つ言葉を暗記し、ことあるごとに復唱します。
 平安と確信が与えられるまで、神に祈り続け、且つ、神は、必ずそうして下さると、感謝の言葉で告白し、信頼 (信仰) を持って先取りします。
 実にこれは、あなたにとっての 「パーソナル リアリティー」 となります。
 奇蹟は、既にあなたの内に内包しています。
 なぜなら、神は、全ての人が、聖人になることを望んでいるからです。
 神は、人をご自身に似せて創られ、はじめに 聖 とされたからです。


 ※ パーソナル リアリティー とは?:Personal Reality 『自分だけの現実』、とある魔術の禁書目録に使用されている専門用語。 能力者が持つ独自の感覚で、超能力を発動するための土台、現実の常識とはズレた世界を妄想したり、信じる力。

 ≪ 特効薬 ≫
  聖マテオの福音書6章31〜34節
  「何を食べ、何を飲み、何を着ようかと心配するな。 ・・・
  まず、神の国とその正義を求めよ。そうすれば、 それらのものも加えて与えられる。明日のために心配するな。 ・・・ 一日の苦労は、一日で足りる。」


  聖パウロのテサロニケ人への第擬蟷罍款錬垣
  「実に神の御旨は、あなたたちが 聖 となることにある。」


  聖ヨハネの第気亮蟷3章1,2節
  「考えよ、神の子と称されるほど、御父から計りがたい愛を受けたことを。 私たちは神の子である。」


  聖ヨハネの黙示録19章4,5節
  「24人の老翁と四つの動物はひれ伏して玉座に座る神を礼拝し、 『 アメン、ハレルヤ 』 と言った。
  ・・・ 『 神のしもべたちよ、小さな者も偉大な者も、神を恐れる者よ、私たちの神をほめ歌え 』
    と言った。」


  聖ヨハネの黙示録21章5節
  「夜はもうない。主なる神が彼らを照らされるので、彼らは灯りも太陽も必要とせず、そして代代に君臨する。」



 人間が創造された目的は、自発的に心から神を賛美し、礼拝することと、神に愛され、また、神を愛する関係 (神の家族) となることにあります。 それは、神と共に永遠に君臨します。


 【神の御旨を求める】

 聖パウロのローマ人への手紙12章1,2節
 「それでは兄弟たちよ、あなたたちの体を生きた清い神に嘉せられるいけにえとしてささげるように、私は神のあわれみによって、あなたたちに勧める。 それは道理にかなった崇敬である。 この世にならわず、かえって神の御旨は何か、神の御前に、善いこと、嘉せられること、完全なことは何かをわきまえ知るために、考え方を改めて自分を変えよ。」


 聖ルカによる福音書22章42節
 「父よ、御旨ならば、この杯を私から遠ざけて下さい。 しかし、私の意のままにではなく、あなたの御旨のままに。」


 原 則:神は、私たちの必要を声に出す前から御存知です。
    ですから、 「主の祈り」 によって、まず神の御旨が成就することを祈り、そして、あなた自身の必要も告白します。 感謝することを忘れないことです。 賛美することはなお、良いことです。 もし何か、咎めを感じたら、正直に神に対し、罪の赦しを願うことです。 神は、無限に、赦す御者です。 人に対して遺恨(恨みや憎しみ)を残しては、なりません。 (自分に対して為された、その人の罪を赦しなさい、そして、忘れなさい。) 精神的病にかからないためにも忘れるようにすることです。 なぜなら、神は、あなたの罪を赦されると、あなたが犯した罪の一切を忘れてくださるからです。



 月影千草
 「 あなたには わからないのよ 真澄さん 」
 「 情熱をかけられる何かがあるってことの幸せが ・・・ 」
 「 ただ生きるだけならゴキブリやネズミと同じこと ・・・ 」
 「 " 生きがい " ・・・ 命をかけられるもの ・・・ 」
 「 これがなくなったら 死んでしまうかもしれない 激しいもの 」
 「 どんな人間でもなにか生きてる価値がある 」
 「 あの子の場合 それは 演劇 」
 「 あの子から 演劇をとったら なにもないただのつまらない女の子になってしまう 」
 「 ただ時をすごすだけの人生を生きるでしょう 」
 「 " 生きがい " があるということは 人間として生きることの価値を 自分でみいだすことです 」
 ( 「 ガラスの仮面 」 − (5) 舞台あらし 155〜156 − )

 北島マヤ
  「わかっているのは お芝居をしていると なんだか胸の中が熱くなって 勇気がわいてくるの ・・・ 」
 「 ああ あたしには これができるんだって 思いが 体中をかけめぐって ・・・ 」
 「 ああ あたしは 生きているんだなって 気がするの ・・・ 」
 ( 「 ガラスの仮面 」 − (7) 炎のエチュード 127 − )



 心理学の専門家が、キリストを信じる3人の女性に質問しました。
 「もし、あなたが手遅れのガンに侵され、 『あとひと月の命だ』 と宣告されたとします。 残された1ヶ月をあなたならどのように過ごしますか?」

 サロメ:「持っているお金を毎日、美食と遊興にあてて、全部使い果たして
      心おきなく楽しく過ごします。」

 マルタ:「真っすぐ天国に行きたいので、罪の償いとして、人のために奉仕し、
      一生懸命 善い事をして過ごします。」

 マリア:「お裁縫をひと針 ひと針、その日一日の勤めを いつもと変わりなく、
      心を込めて過ごします。」

 さて、あなたなら何と答えますか?



 朝、目を覚ました瞬間から床につき 就寝するまで、その日一日の労働と食事、通勤・通学、お掃除、洗濯、お茶のひと時、ets ・・・ ごく当たり前の、つい何気なく過ごしてしまう一日24時間を心を込めて、情熱を持って意識的に過ごすということは、何と乏しいことだろうか。
 今振り返ってみると、幼い頃は、一日1時間が、とても長く感じたものだが、思春期の頃は、大人になりたくなくて いつまでも ( 遊んでいたいがために ) このまま成長せずに時間が止まっていてほしい、と願ったものでした。
 社会人になると、仕事に追われ、一年があっという間に過ぎていきます。
 気がつくとすでに片足を死の淵にかけているではないか!
 自己の存在理由、存在価値を改めて問いただし、これでいいのか?
 本当は、もっと、別な何かを求めて生活すべきではなかったのか?
 と、自問自答しつつも “ これでいい ” , “ もう遅い ” などと 言い聞かせながら、それ以上、自分を見つめ直すことに目を閉じ、ただひたすら時間の流れに身をまかせてしまっている。 ・・・・
 “ 過去のあの時点に戻って、やり直すことはできない ” と、あきらめてはいないだろうか?



─ 臨死体験をした一人の男の物語 ─


 臨死体験をした一人の中年男がいました。
 彼は突然、くも膜下出血と言う恐ろしく激痛の伴う病に倒れ、緊急入院しました。 病院に運ばれた時には、すでに昏睡状態で虫の息でした。そして、臨終。
 医者が、臨終を確認してから2日目の朝のこと、霊安室で奇蹟的に彼は、蘇生しました。
 月日は経ち、リハビリも終わり、病院から退院して、社会復帰ができるようになりました。 その男は、新たな仕事に就き、人が変わったようにつつましく働くようになっていました。 そのひたむきな誠実さは、以前の彼を知っている知人を驚かせました。

 とうとうその知人は、彼にどういう心境の変化が起きたのか尋ねました。 ちょうど公園の傍を歩いていた二人は、ベンチを見つけて腰をおろし、しばらくすると、その男は、青空の中を流れる遠い雲をながめながら、恥ずかしそうに、話し始めました。

 「こんなことを言っても、たぶん誰も信じてくれやしないだろうけど、・・・
 臨死体験をしたんだ。 ・・・ その時、確かに “ 神の声 ” を聞いたんだ。・・・
 あの時、頭が割れるほどの耐え切れない激痛に襲われ、床に倒れて転げまわっているうちに そのまま、すーっと、気を失っていったんだ。
 どのくらいの時間が経っただろうか? ・・・
 あたりは真っ暗な闇 ・・・
 何も感じない、何もない。 ・・・
 突然、真っ白な空が現われた。

 記憶のどこか遠くで、電波の届かないラジオのように かすかに音がしていた。
 耳から聞こえるんじゃなくて、直接、心に記憶されるようになんだ ・・・・。
 ふと気がつくと、目の前に門があった。 ・・・
 声なき声で直観的に理解させられるんだが、それは、 “ 天の門 ” だとわかった。
 中に入りたくて、閉ざされた扉を叩いたんだ。 ・・・
 しばらく叩き続けたんだが、 ・・・ しかし、開かないんだ。
 堅く閉ざされた扉の前で、恐ろしいほどの沈黙と、寂しさがこみ上がってきて、止め処もなく涙が流れ、とうとう泣きながら大声で叫んだんだ。
 『 開けてくれー!開けてくれー! 』 ・・・ ってね。
 どのぐらい経ったのかわらないほど長く感じた ・・・
 うまく言い表わせないんだが、数ヶ月を過ごしたかのような感覚にとらわれるんだ。 ・・・ あの後、
 “ 神の声 ” が、直接心に はっきりと 静かに 語りかけてきたんだ。
 あれは、確かに “ 神の声 ” だった。
 今でも心に 焼き印 されているかのように、鮮明に残っている。 脳に音として記憶されるんじゃなくて、骨髄の奥に ・・・ そうだな、魂に直接 “ 像 ” として消えることなく、はっきりと、刻まれている、 ・・・ それは、今でも鮮やかに残っている。」

 「それで、君になんて言ったんだ?」

 と、知人は、すぐさま催促して聞きました。
 その男は、知人の方に顔を向け 意味深な微笑みを浮かべて言いました。

 「何て言ったと思う?」

 知人は、全く予想もつかない質問に困り果てた顔つきで、 「 ・・・ 」 沈黙していた。
 陽が、西の空に傾きはじめていました。 しばらくして、その男は、高く遠い空の一角を見上げながら、ゆっくり思い巡らすかのように また、話し始めました。

 「 こう言ったんだ。 ・・・

  『 おまえは、地上から取り去られるまでの生涯、私の為に何をしたか? ・・・ 
 もし、胸を張って答えられることがあれば、この扉を開けてやろう。 』 ・・・

  その言葉の意味が解るや否や、私がしてきた地上でのすべての行いが、まるで 一瞬に見せつけられる映像のように心をめぐり、そして、すぐさま悟ったんだ。 ・・・
  神のために誇れるようなことも、喜んでもらえるようなことも、何一つしていなかった。 ・・・
  すべて、自分の欲のためだった。 自我自賛、自己満足、自己中心の独り善がり、あえて自分を犠牲にして神のために、人のために耐え忍んで行うことなど、ひとつもなかった。
 いつも、見返りを求めていた。 私は、凍ったように答えられなかった。 ・・・

   “ 何にもない ”

  そう、心で呟いた瞬間、

  『 何もないのか? 』 ・・・

  “ 神の声 ” がした。 ・・・

  それから、壮大な天界の空にはっきりと神の御手によって書かれていく文字が見えた。 ・・・
 読むことは 出来なかったが “ 霊 ” が、直観的に何と書かれてあるのか、その意味を悟らせてくれた。
  そして また、 “ 神の声 ” があった。 ・・・
  『 もうしばらく、おまえに地上での時間をやろう。 行きなさい。 』」

 その後、その男は、神が書かれた文字の意味を知人に解き明かしました。
 地上に戻って来てから自分の身に起きた出来事をも話しました。
 ある日の夕方、ふとしたきっかけで出会った青年の手から一冊の書物を受け取り、その本から引き寄せられるように読み進む中、天空に神が書かれた文字と同じ文章を見い出し、釘付けられたようにしばらく立ちつくしていました。
 そして、どれほど歓喜し、驚愕し、心踊ったことか、などを ・・・ 。
 さらに 別れ際、ひとりごとのように彼は、知人に言いました。

 「いつかまた、神にもう一度、会いま見える時が来るだろう。 ・・・
 その時こそ、言い逃れることは、出来ない。
 ただ、 神の憐れみにすがるだけだ 。 ・・・
 ああ、なんと大きな負債を負っている事か、どんなに尽くしても、尽くしきれない。 ・・・
 それでもなお、 “ 希望の火 ” が、くじけそうになる私の心を再び、燃やしてくれる。 ・・・ 」

 夕闇迫る公園、ほとんど沈みかけている太陽の光が、わずかに差し込んでいました。 涙を浮かべている男の目を一瞬照らして儚く消えてしまった時、彼の憂いとは裏腹に、その瞳は、かすかな喜びをのぞかせていたように見え、そのまま、すーっ と、闇につつまれていきました。


 「まことに私は言う。あなたたちが私の兄弟であるこれらの小さな人々の一人にしたことは、つまり私にしてくれたことである。」
 −聖マテオの福音書25章40節−


 「まことに私は言う。あなたたちが悔い改めて子供のようにならないなら、天の国には入れぬ。 ・・・ また私の名のために、こういう子供を受け入れる者は、私を受け入れる。」
 −聖マテオの福音書18章3,5節−


 「私に向かって 『主よ、主よ』 と言う人がみな天の国に入るのではない、天にまします御父の御旨を果たした人が入る。」
 −聖マテオの福音書7章21節


 「私のおきてを保ち、それを守る者こそ私を愛する者である。 私を愛する者は父にも愛され、私もその人を愛して自分を現す。」
 −聖ヨハネの福音書14章21節−


 「だれでも、私に従おうと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を担って、従え。」
 −聖マテオの福音書16章24節−



 「希望は、決して失望に終わることは無い。」
 そして、二千年も前に十字架上で死を遂げたイエズス・キリストの全人類に対する罪の贖いは、過去の時代の人々のためだけではなく、今の現代人にも、現在形にして有効です。 (あなたの、罪が、イエズス・キリストを十字架に押しやり、磔たのです。) それ故、再び、イエズスの聖血と水によって、信じる者を 聖 とされます。


 ガブリエル司祭
 「 ・・・・ 多くの良い決心をした後に、また同じ過ちに落ち、いくら努力してもある欠点に打ち勝てず、ある困難には、打ちのめされ、どうしてみても、あなたがそうあるべき、あるいは、そうありたいと望むもの以下であるのに気付いたならば、 “ 謙遜 ” という特効薬に頼るが良い。 力は、尽き果て、万事に無力で絶えず倒れ、しかも、起き上がる事ができない と、感じる時でさえ、あなたには、いつでもできる事がひとつある。
 すなわち、へりくだる事である。
 心の底から、そして、信頼を込めて、へりくだるがよい。 謙遜は、あなたのすべての惨めさを補い、すべての傷を癒すだろう。 謙遜は、あなたの惨めさ や 傷の上に、神の憐れみを 呼びくだすからである。」

 シラ書35章17,18節
 「へりくだる人の祈りは、雲をつらぬき、主に届くまでは、慰めを知らない。 いと高き御者が かえりみ、正しい人に正義が返され、公正になるまで、その祈りは、休まない。」

 聖ベルナルド修道院長教会博士
 「 純潔において、マリアと等しくなることができないなら、せめてその謙遜にならいなさい。 童貞性の徳は輝かしい。 しかし、謙遜は必要である。 前者は、単なる勧めにすぎない。  『 受け入れることのできる人は、受け入れなさい 』 (聖マテオの福音書19:12)。 しかし、後者は、絶対命令である 『 あなたたちは幼子のようにならなければ、けっして 天の国には入れない 』 (聖マテオの福音書18:3)。 したがって、童貞性は、報いられるが、謙遜は、要求される。 童貞性なしにでも救われることはできるが、謙遜なしには、救われない。 マリアの童貞性でさえ、謙遜なしには、神の聖心にかなわなかっただろう。 もちろん、マリアは、その童貞性によって神の聖心にかなったが、謙遜によって、母となったのである。 」

 ※ 常に、「神に導かれていると、神が共にいてくださると、神が正しい道を選んで下さっていると、神が道なきところにも 道を備えて下さっている と、信じています。」
 と、告白してください。 たとえ、疑いの呟きが、あなたの心に こだましても、それらの声を退けなさい。 自分にやましいところがあるのなら、神に罪を告白します。 祈りの妨げと感じたら、たとえ、小さなことでも、思い出されることは、何でも告白して、赦しを 神に願います。 それから、希望する祈りを 大胆に捧げます。 そして、ためらわずに 何度も、神に対して信頼の告白をしてください。 神の正義・善・愛を追い求めるようにします。 また、神への感謝を忘れないで下さい。 祈った事は、すでに叶えられたと、信じて、神に感謝するのです。 そして、成就するまで、あきらめずに絶えず、祈るのです。 神のみ旨にかなった祈りは、必ず、神からの平安がやってきます。 義人の祈りは、神の御座に祈りが、届くまで、休みを知りません。

 聖主の仰せられた通りになると、堅く信じなさい。
 あなたの心の中でもう一人のあなたの声が、否定し、批判し、消極的な考えを提供されても 受け取ってはなりません。 それは、悪の囁 (ささや) きであり、真理の霊、善の声 ではありません。 あなたのもう一人の “ 良心の声 ” に耳を傾け、従いなさい。

 聖マテオの福音書15章27〜28節
 「 『 そうです。 けれども主よ、子犬も主人の食卓から落ちるパンくずを食べます。 』
 と、婦人が言うと、イエズスは、 『 ああ女よ、あなたの信仰は深い。 望みどおりになれ。 』
 と、言われた。 娘は、その時治った。 」

 聖マルコの福音書5章34節
 「 娘よ、あなたの信仰があなたを救った。 安心して行きなさい。 あなたの病気は治った。 」

 原 則:永遠の生命は、死によって始まるのではなく、すでに永遠の中に存在しています。 ただ、あなたの霊魂が、死んだ状態であれば、あなたは、肉体の死と同時に 霊魂も永遠に死にます。 イエズス・キリストを信じて洗礼を受けることは、霊魂が、永遠の命を受け、死から生へとよみがえり、肉体の死と同時に 霊魂は、永遠の生命をもって天国において生き続けます。
 人は、二度生まれなければ、天国に入れません。 一度は、この世に肉体の生を受けるために、二度目は、死んだ状態の霊をよみがえらせるために 洗礼によって生まれる (再生する) 必要があります。 生命は、肉体的死によって形を変えるだけであり、ちょうど毛虫が、蛹 ( さなぎ ) へと、蛹から蝶 ( ちょう ) に変わるのと同じように、より良い状態に 「完全変態」 します。 自然界には、多くの真理が、目に見える形で 隠されています。 しかし、 神の霊的助けなくして 真理を見出すことは、極めて稀なのです。 人生の価値は、その人が、 「 何をしたのか? 」 という経歴ではなく、 「 誰と共に歩んだのか? 」 と、言うことにつきます。 手本となられた 聖主の後姿を 思い巡らし、へりくだって ついて行くことです。 そして、聖主は、エンマヌエル ( 神は、 われわれと ともにまします ) の神ですから、あなたと 共に歩んで下さいます。 決して、見捨てることは、ありません。



イエズスの御血のサンプルについてロン・ワイアット氏の証言




参考文献
「積極的考え方の力−ポジティブ思考が人生を変える−」
ノーマン・V・ピール著 桑名和央+市村和夫訳(発行所:ダイヤモンド社)


バルバロ神父訳「聖書」(講談社)



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著者:baramado
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ベギン出身のマルグリット・ポレート著作 「 単純な魂の鏡 」 至聖三位一体の真に生きておられる神と一致する霊魂とは、どういう状態なのか?「アセンション:次元上昇」を経験したい人への推薦書

マルグリット・ポレート著作 「単純な魂の鏡」


 数世紀にわたって著者不明のまま世に現れた、「単純な魂の鏡」 ( Mirouer des simples ames ) は、フランス語で書かれた原典から、14,15世紀には、ラテン語、イタリア語、英語に翻訳され啓示を受けた正統な信仰の証しによる信心書としてヨーロッパ中で広く読み継がれていました。
 どの写本も著者の名前を伝えておらず、ラテン語訳, 英語訳写本では、最終章に三人の聖職者の推賞が添えられており、そのうちの一人は、パリ大学神学部教授フォンテーヌのゴドフロワ ( 1250以前〜1306/09年 ) だと言います。

 この著作の著者が、マルグリット・ポレート ( Marguerite Porete 1310年6月1日没 )であることを最初に指摘したのは、イタリアの学者 R.グァルニエーリによる1946年の論文でした。
 マルグリットの生涯とその悲劇的死を知る手がかりは、宗教裁判の記録と、この事件の経過を略述する数種の年代記が残されています。
 異端審問の裁判記録によれば、マルグリットは、エノー ( Hainaut ) 出身のべギンであり、彼女の著書は、1306年、カンブレ ( Canmbrai )の司教によって異端の有罪宣告を受け、ヴァランシエンヌ ( Valenciennes ) 広場で焼かれました。
 1309年4月、マルグリットの著作が、二度目の検閲対象となりました。フランス管区総審問官パリのギョーム ( Guillaume de Paris 1314年没 ) の管轄下、12名のソルボンヌ神学者によって、彼女の著作から異端の疑いのある15項目が、審理されました。
 マルグリットは、逮捕されて以来、宣誓することを拒み、審問官の質問にも答えませんでした。
 5月31日、再背教者 ( relapse ) として有罪の宣告を受け、1310年6月1日、パリのグレーヴ広場の火刑台上で焚刑が、執行されました。
 ある年代記は、彼女の毅然とした態度が、群衆の涙を誘ったと伝えています
  (まるで、 最も敬愛する殉教聖人のひとりである 聖ジャンヌ・ダルク のようでは、ありませんか!)

 裁判記録も年代記もこの著作名を明らかにしていません。 しかし、異端の根拠となった15項目のうち3項目は、「単純な魂の鏡」の記述に対応しており、この著作が、マルグリット・ポレートの著作にほかならないことを示しています。


※ 「ベギン」 とは何か?
 中世神秘思想にかかわるこの共同体に属する人々のこと ─ 「ベギン」 とは?

 ベギンの発生は、おそらくA.D.1100年以降、ではないかと考えられます。 聖ドミニコ会や聖フランシスコ会の成立とほぼ同時期に自然発生的な形で都市内部に同じ志(こころざし)を持つ人たちが、小さな共同生活をおくるようになったことから始まります。 やがて、在俗女性信徒 べギン(beguina;bguine) 共同体へと発展していきました。

ベギンの構成員
 特権的階級に属さない女性にも開かれていたシトー会や托鉢修道会などが、バックアップ・フォローされていたようで、女性信徒べギン や 男性信徒べガルド(beguinus;bgard) は、伝統的な共住修道生活への召命を感じておらず、しかし、独居の隠修生活をも望んでいない人々のことでした。 ごく普通の一般市民と同じように、女性は、縫製や刺繍、病人の介護や子供の教育、男性は、機織などの仕事で生計を立てながら、少数の集団で 共同生活(bguinage:べギナージュ) を送っていたとされます。 多くのべギナージュが、ドミニコ会士の指導を受けていたせいもあり、新興の托鉢修道会を競争相手と見る当時の教区司祭から、疑惑の眼を向けられていました。

 中世、自然発生的にべギン運動が徐々に発展していったのは、都市化が進んだネーデルラントのブラバント地方で、敬虔な女性たちは、主に手仕事をしながら相互扶助の共同生活を営み、病人の看護や教育などにも携わっていました。 彼女らは、シトー会の指導を受け、一般信徒にも可能な範囲で福音の理想を実践しようと努めました。
 ナザレトのべアトレイスをはじめ、シトー会の修道女には、べギンとなんらかの接点をもつ者が多く、彼女たちの共通点は、神秘的傾向 { 脱塊と幻視、神との神秘的な一致の経験 } を持つ者が多かったといわれます。
 フランドル、ブラバント、プロヴァンスなどのべギナージュからは、後世に残るべギンたちが輩出しましたが、14世紀には、 「聖霊派」(spirituales) や フロリスのヨアキム(Joachim de Floris;Gioachino da Fiore 1135年頃〜1202年)派、さらには、カタリ派などの異端諸派と混同されて 厳しい迫害の対象となってしまいました。

 その代表的な被害者が、マルグリット・ポレート(Marguerite Porete 1310年没)でしょう。 彼女の著作が、異端の嫌疑を受け、二度目の異端審問の時、マルグリットは、イエズスが ポンテオ・ピラトの前で子羊のように沈黙したごとく、彼女もまた、一切の審問に沈黙しました。
 1310年6月1日パリ、グレーヴ広場の火刑台上で マルグリットは、焚刑の死を遂げました。
 聴衆は、彼女の毅然とした態度に涙を流したと、ある年代記は、伝えています。
 今日では、彼女の神秘霊性は、正統な神秘神学の伝統に連なり、その枠組みの中でこそ、正しく評価される と言われています。 その著作こそ、 「単純な魂の鏡」(Mirouer des simples ames) であり、原典は、フランス語で書かれていました。 すでに14、15世紀には、ラテン語、イタリア語、英語に翻訳され、著者不明のまま、啓示を受けた正統な信仰の証しによる信心書としてヨーロッパ中で広く読み継がれていました。

 ≪ この世に勝つ方法:神の勝利を求める ≫
 第汽灰螢鵐反佑悗亮蟷 15章57節
 「しかし、主イエズス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わった神に感謝しよう。」

 第汽茱魯 5章4,5節
 「なぜなら、神から生れた者は、世に勝つからである。 そして、世に勝つ勝利は、すなわち私たちの信仰である。 世に勝つ者とは、だれだろうか。 イエズスが、神の子である と、信じる者ではないか。」

 黙示録21章7節
 「勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐであろう。 私は、彼の神となり、彼は、わたしの子となる。」

 詩篇 60篇7節
 「あなたの愛される者が救われるように、御右の手をもって 勝利を与え、私に答えたまえ。」

 イザヤ 41章10節
 「恐れるな、わたしはあなたと共にいる。 おどおどするな、私は、あなたの神である。 あなたを強め、あなたを助け、わが勝利の右の手で、あなたを支える。」

 原 則:神の勝利とは、この世の成功や勝利とは違い、天国への凱旋、悪魔に対する霊魂の勝利であることを、第一に言及しておきます。 このことを忘れてはなりません。 聖ジャンヌ・ダークは、その当時の異端審問によって、 「 魔女 」 として、火あぶりの刑を受けましたが、その後、裁判の不正が、明らかになり、彼女の名誉は、回復され、列聖されました。 聖ジャンヌが、受けた啓示は、明らかに神からのものだったことが、証明されました。 彼女は、この世の命を惜しまず、神から受けた啓示と、その信念、神への愛と、信頼を選び、ついには、妥協せずに自らの使命と、受難を甘んじて受け入れ、今は、天国に凱旋を果たしています。 もし、あなたが、困難の状況にあり、迷路をさ迷うのであれば、脱出する道を 指し示して頂けるよう 聖ジャンヌ・ダーク へ祈りの取次ぎを願いなさい。 神は、必ず あなたを助けるだろう。

 主イエズス から シスターヨゼファ・メネンデスへ
 「私は、おまえが小さく謙遜で、つねに微笑んでいることを望む。 そうだ、私は、おまえが喜びのうちに生きることを欲する。 己を処するに厳しくあっても。 たびたび、自分にとって辛いことを選びながらも、快活で喜びに満ちていなければならない。 私の聖心にいちばん光栄を帰するのは、平和と、喜びのうちに、私に仕えることなのだ。」

 教皇ヨハネ・パウロ鏡
 「真の知恵は、神への謙遜だけである。 これがあれば、礼拝、信頼、神の愛と、御摂理に心を開く。」



a) 「裸の貧しく ( 空しく ) された魂は、諸徳にいとまごいをし、もはや諸徳に仕えません。 諸徳を必要とせず、かえって、諸徳が、 〔 魂 〕 について来るからです。」

b) 「 このような魂は、神の慰めも、神の賜物をも、思い悩んであてにすることがありません。そうすべきでもないし、またそうすることもできません。 この魂の関心事は、完全に神に向けられているからですが、また、神への配慮のために妨げられてしまうからです。 」

c) 「 創造者の愛のうちに裸に貧しく ( 空しく ) された魂は、良心のけん責も呵責 ( かしゃく ) もなく、自然が求め、望むすべてを自然に与えることができ、またそうすべきです。 」
( Margaretae Porete, Speculum simplicium animarum 8,ed.P. Verdeyen, CCCM69, Turnhout 1986 )

  『 単純な魂の鏡 』 は、擬人化された神、魂、愛、理性などが登場して 問答対話形式 を使用したわかりやすい 神秘神学信心書 に類します。 霊の命を生きるの7つの存在様式をたどって、魂が、謙遜の谷から、観想の山頂へどのように登っていくのかを語っています。 人間の霊魂が、最も高い、第5,第6 の存在に到達できるためには、自由な ( franche ) 魂だけとされます。 これを簡単に見て理解する方法として、「 カルメル山登攀の図 」 が、役立ちます。

 ( 第一、第二、第三、第四段階 省略 )



─ 以下の文章は、「 ビジョンの危険性 ( No.1 ) 」 の抜粋です ─

 ワラベ   カタ
 『 童のときは、 語ることも童のごとく、思うことも童の ごとく、論ずることも童のごとくなりしが、成人となりては、童のことを棄てたり。
 今、我ら、鏡持て見るごとく、見るところ、おぼろなり。 』
 ― 第一コリント13:11 文語体新約聖書 ―


 甲殻機動隊 「ゴースト・イン・ザ・シェル」 をご存知だろうか?
 押井守氏の代表作であり、続編劇場版 「イノセンス」 の原点です。 そのストーリー展開の中に、上記のセリフが挿入されています。 本来の聖書的意味合いは、

 「 幼子だったとき、わたしは、幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。
 成人した今、幼子のことを棄てた。
 わたしたちは、今は、鏡におぼろげに映ったものを見ている。 」


 わかりやすく訳すと、
 “ わたしが幼児であったときには、話すことも幼稚で、考えることも同じく幼稚であった。しかし、大人となっては、その幼稚さを棄ててしまった。 ”
 と言う霊的成長 (段階) の表現を意味しています。

 『 感覚的なことがらや、そこから霊が引き出すことのできる認識などの幼稚なものに執着をもち、それらを捨てようと思わないならば、われわれは、決して霊における幼児的段階からぬけ出られないであろうし、常に、神について語ることも幼稚で、神を知ることも、神について考えることも幼稚なのです。 』

 と、言うことになります。 譬えて言うなら、幼い子供が欲しがる “ ペロチャンキャンディ、風船、綿菓子、マーブルチョコレート ” など、感覚的に楽しく、甘く、喜ばれるもののことを指します。 大人になれば、感情の欲望を抑え、理性を働かせて無味乾燥なものの中に、真の価値を見出そうと努力することにあります。

 霊的なもの、夢や、ヴィジョンを感覚的に欲してはならないということです。
 感情の満足感ばかりに執着していてはならないということです。
 「 楽しみや喜び、快楽的なものを卒業し、 大人になって、かたいものや反芻するようなものを選び取るようにせよ
 と、言うことを示しています。
 「 牛のように神の言葉(聖書の言葉)を繰り返し反芻しなさい
 と、いうことであり、ユダヤ人が食べてよい肉が、まず、反芻する動物の羊や牛を手本とすることから来ています。

(1) 預言は、天気「予報」ではなく、親が子供を思う気持ちから出た言葉、子供の至ら無さを戒める「忠告」です。

 『 あなたたちが試練を受けるのは 懲らしめのためであって、神は、あなたたちをこのように扱われる。 父から懲らしめられない子があろうか。 誰にでも与えられる懲らしめを受けなかったら、あなたたちは “ 私生児 ” であって、真実の子ではない。 』
 ― 聖パウロ・へブライ 12:7〜8 ―


(2) 神からのヴイジョン(示現,幻視)や言葉(預言,啓示)は、原因が変われば、 『 たとい神が、本人、または他の人によって、良いことにせよ悪いことにせよ、ある人に何かはっきり言い または、啓示されたとしても、その人の心の持ちかた、あるいは、その土台となっている事柄が、いろいろ変わることによって、それは、大きくまたは、小さく変わったり、または、全く無くなったりし得るもので、人々の思うようにそれが実現するわけではない。 』
 ― 十字架の聖ヨハネ カルメル山登攀 P199 ―


(3) 「聖母の預言」とは、聖母が世界中で出現し、人類に伝えようとしている内容の一つの手段です。 本来、すでに聖書に書かれている預言であり、その内容を明らかにすると共に、祈りによって、回避する事にあります。

 『 ・・・ 私の言葉に含まれている預言に留まってはなりません。 その預言は、あなたたちが、現在生きている、この時代を理解させようとする、一つの努力に過ぎないのです。 私が、母としての立場から、あなたたちがさらされている危険、迫っている脅威、起きようとしている悪について話すのは、ほかでもありません。 それらの悪が、まだ免れ得るもの、その危険から逃れられるもの、そして、神のご計画が、そのあわれみ深い愛の力で、いつでも変更可能なものだからです。 私が、天罰を前もって知らせるときにも、それらはすべて、あなたたちの祈りと、償いを捧げるその改心の力によって、一瞬のうちに変え得るものであることを思い出しなさい。 』
 ― 1984.1.21 Fr.ステファノ・ゴッビ神父へのローキューション ―
   (司祭のマリア運動創設者) 著書 [ マリアから司祭へ ] 抜粋

    ローキューション:内的語りかけ。 プロテスタントでは、「レーマ(rhema)」と言われています。

 話を 「ゴースト・イン・ザ・シェル」 に戻しますが、人間が霊的に大人になると、神の目から世界を見ることができるようになります。 それは、一種の愛や慈しみによって全世界を 愛おしく見ることができようになります。 ひとりの罪びとの改心をこよなく切望することになります。 霊の目が、神的に開かれると、一瞬にして知りたいことを 言葉による説明など無くても 霊感によって知覚し、理解できるようになります。  このような知覚を、甲殻機動隊 「ゴースト・イン・ザ・シェル」 に転化すると、 ネットの膨大な情報ソースは、人間の 「ゴースト」 と融合(結合)する時、人間の霊魂が、 神的な知覚と一体化する と言うことを 暗にほのめかしています。 宇宙は、広大無辺ですが、神の目から見れば内包された世界であり、造られたものである以上、有限となります。 また、宇宙は、人間の体(肢体)に似せて造られています

(4) 預言(ヴィジョン)に留まってならない理由とは何か?

 「 知覚、想像に映ずるヴィジョン、何かの形やイメ―ジ、個々の知的形態をとって示されるものであるならば、それが悪魔に由来する偽りのものであるにせよ、あるいは神からくる真実のものであることがわかるにせよ、理性がそれにこだわって、そこに糧を求めたり、心を留めたりしてはなりません。 」

 (自分の見た)ヴィジョンに執着し、見たいと思っていると、悪魔に偽りのヴィジョンを見せられ騙されてしまいます。

 『 それらのことについて知性を照らし、役に立つ良いものだからといってそのヴィジョンにこだわって、神的英知との一致が妨げられたり、あるいは、偽りのヴィジョンによって欺かれたりしないようにすることにあります。 神との一致のためには、霊魂は、ヴィジョンなどから離れて、赤裸(何も持たない)になり、そうした形のものは何もないまでに、清く洗われた者にならなくてはならない ( 頭の中を何も考えず空っぽにすることではありません。 それは、また、別の意味で危険な行為です ) 。 なぜなら、理性が一致すべき神の英知には、何らの形態というものがなく、全く純粋無垢であるため、限られた枠や個々の形をとる認識の中に入ってこないからです。 』

【 参 考 】
 ・旧約聖書 第二法 4:12
  「あなたたちは、その言葉の声を聞いたけれども、その形は全く見ることがなかった。」


 ・旧約聖書 民数の書 12:6〜8
  「 私のしもべモーゼには、他の預言者のようには語らない。 私の家の最も忠実な者と定め、私は、彼に顔と顔を合わせ、口より口にはっきりとなぞぬきで語る。 かれは、喩えとかそれに類似したものや、形をかりて神を見るということもない。 彼は、主の姿を見ている。 」


(5) 神の愛の本質的な一致に達するためには、ヴィジョンやイメージ、個々の安直な理解や啓示などを頼りにしてはいけません。 神との一致を目指すためには、修道的な要素が不可欠で、絶え間ない努力、無味乾燥の味気ないものを忍耐しながら練り上げていきます。

 錬金術は、その良い見本となります。自らの純粋な霊魂を形成するためには、雑念やこの世の欲望を燃やし尽くしてただひたすら神との愛の一致に達するために日々切磋琢磨し、信仰を深めることにあります。
 注意 : この場合の錬金術とは、金を得る方法とか賢者の石を得る方法ではありません。 もともと、 錬金術とは、フランシスコ会やドミニコ会などの修道士達の修道方法 でした。 自分自身の精神を純粋な心へと精錬する修行のことでした。

 「 ガラス窓に入る光の妨げとなるのが、汚れであるのと同じく、心の不純と不完全は、精神が、神との真の交わりを、自由にもつことの妨げとなります。 」

 ヴィジョンを受け取る謙遜な霊魂とは、・・・

 『 霊魂も、ガラス窓が、そこに差し込む太陽光線を妨げることが出来ず、ただ、全く受け取るというのに似て、いくら拒もうと思っても、それらのイメ―ジの力や働きかけを受け入れないでおこうとしてもできず、どんなに抵抗してみても無駄です。 なぜなら、謙遜な愛をもって何もかも棄ててかかる意志であるならば、この 超自然的な光 が、注がれるのを防ぐことは、できないからです。 』

 超自然的な光=神からの預言,ヴィジョン(幻)のこと。

 『 霊的なものは、感覚にとらえられるような形をとるものではなく、われわれを信仰における神との一致に導くもので、この信仰こそ、ふさわしい手段なのです。 したがって、向上するためには、ヴィジョンなどを常に退けなくてはなりません。 』
─ 「 ビジョンの危険性 ( No.1 ) 」 の抜粋より ─





 第5段階、魂は、自分が罪を負った最低の存在、無であることを知ります。
  自分の意志を神にお返しして完全に神の意志と一致するように促されます。


 第6段階、魂は、神のうちにたたずみ、空しくされ、霊の一致が、実現します。
  感覚の嗜好や感情の喜怒哀楽や期待や恐れなどあらゆるこの世的思考から解放され、無が全てとなり、全てが無となります。魂は、完全な自由と平和を手に入れ、徳も、苦行も、祈りも、業も、無用とし、自分の救済にすら無関心になります。
 この場合の “ 無 ” とは、 「 空 」 とは 違います。 頭の中を 「からっぽ」 にすることではありません 。 座禅における状態の 「空」 ではありません。 むしろ、思い浮かぶ 神の御言葉 を思い巡らし、 反芻すること、観想すること から始まります。 自我を無くし、神の意志・御旨で満たすことになります 。 神は、人間のように喜怒哀楽などの感情を必要としません 。 痛みや悲しみや恐れは、人間の肉体を持つ人間特有のものと言えます。 人間が、勝手に神を擬人化して感情を持たせたりしますが、 神性そのものには、人間の感情と言ったものは、ありません 。 同様に、人間が考えているような 善悪判断の知性や理性 と言った 思考ではありません。 全知全能万物の根源である神は、人間ではないから、神の霊の領域に人間の霊魂が、安らぐ時、神の霊の内にひたることになります。


 第7段階、永遠の栄光において愛が、私たちに授けるものであり、魂が、肉体を離れるまで、誰もそれについて語ることはできません。

 マルグリットの教えは、自由心霊派の異端と不当に混同され、ヴィエンヌ公会議 ( 1311〜12年 ) において断罪されましたが、今日では、彼女の神秘霊性は、正統な神秘神学の伝統に連なり、その枠組みの中でこそ、正しく評価されると言われています。  『 単純な魂の鏡 』 は、声に出して読み聞かせることを意図して書かれたため、文体が リズミカルで 且つ、韻文の詩もあったりします。 韻をふみながら声に出して読むと、よりわかるでしょう。


「 空しくされ、ひたすら愛の意欲と望みのうちにとどまる単純な魂の鏡 」



 第一章 序 言
 第1の恩寵の状態において神によって触れられ罪を捨てた魂は、神の恩寵によって第7の恩寵の状態へと高められます。 この状態において、魂は、十全なる完成を得ます。


 愛は、話します、

 「活動的な人々よ, 観想的な人々よ, 真の愛によって空しくされた人々よ, 解放された魂の純粋な愛、高貴な愛、崇高な愛の力について、どのようにして聖霊が、この魂にご自身の船として帆を張ったのかをこれからお聞きになる人々よ、心から皆様方に懇願します。」

 と愛は、言う、

 「あなたがたの持てる繊細な知性を大いに働かせ、熱意をふくらませて聞いて下さいますように。
  もし、怠れば、これからお話を聞く人々は、皆それを誤解することでありましょう。
  これから世俗の愛についてのささやかな譬 ( たとえ ) 話に謙遜の限りをつくして耳を傾け、そして、神の愛についてもこれと同じように理解していただきたいのです。」

 世俗の譬え話。

 「昔あるところに王の娘である気高く高貴な、また、高潔な心根の一人の姫君がおり、異国に暮らしておりました。アレクサンドロス王の大いなる クルトワジー と高貴さの噂を耳にし、その意志は、王の貴族ぶりなる名声ゆえに彼をただちに愛したのでした。
  しかし、姫君は、自分が思いをかける大殿とは、あまりに遠く離れて暮らしていたので、彼を見ることも得ることも叶わず、しばしば心を痛めていたのでした。
 この愛をのぞいていかなる愛も心を満たしては、くれなかったからです。自分の心の内では、すぐ近くにあるこのはるかな愛が、心の外では、あまりに遠くにあるのを見て、彼女は、心にしばしば痛手を負わせる恋人の面影を思い描くことで悲しみを慰めようと思いついたのでした。
 そこで、愛する王の似姿を表す絵を、できるだけ自分に好ましく思われる姿形に似せ、心を捕えて離さない愛への思いに従って描かせました。そして、この絵を使って、また、ほかにも工夫を凝らし、彼女は、王その人を夢想したのです。」

 魂は、言います、

 「まったく同じようにと、この書を書かせた魂が言います、私も同じようにあなたがたに言います。 強大な権勢を誇る一人の王、高貴さと気前の良さの偉大なクルトワジーにより、高貴なアレクサンドロスのような一人の王の噂を私は、耳にしました。
 しかし、彼は、私から、私は、彼からあまりに遠く離れていましたので、私は、慰めを得ることができず、そこで王は、ご自身の愛をなんらかのかたちで表しているこの書を私に与えたのです。 王の形象を得ることができたとはいえ、やはり、私が、異国にあることに変わりはありません。 この殿のいとも高貴な友人たち ―─ それは、住まいを共にするこの王の賜物により、まったく純粋で洗練され解放された人々です ─― が、暮らす宮殿からは、遠く離れているのです。」

 作者

 「そこで、私たちは、小さな者たちが、あなたがたの口を介して聞くことができるように、いかにしてわれらの主が、愛からまったく自由ではなく、一方、愛は、私たちのために主から自由であるのかということをこれからお話しいたしましよう。
 愛は、誰にも悪を行うことはなく、全能だからです。
 そして、愛は、あなたがたのためにこのように述べています。

  『 もし、被造物が、完全なあり方に至るまですべてのあり方を辿る覚悟をするならば、高貴な存在の七通りのあり方があり、そこから、被造物は、ひとつのあり方を授けられるのです。 』
 では、それが、どのようにしてなのかをお話し致しましょう。」



第ニ章 愛のご計画についてまた、なぜ愛は、この書を作らせましたか。


 愛は、

 「聖なる教会の幼な子たちよ、」

 と、言います、

 「あなたがたが、耳を傾け、被造物が完全な慈愛 ( charit ) の徳 ―─ これは、全き三位一体から与えられる賜物ですが ─― を通して到達することができる生の完成と平和のあり方をよりいっそう受けるに値するよう、あなたがたのためにこの書を作りました。
 この書の中で、理性の問いかけに応じて愛の理解が、この賜物について説き明かすのをお聞きになって下さい。」



第三章 愛は、聖なる教会の掟 ( おきて ) について話します。


 愛は、言います、

 「ここで私たちは、神のご加護によりこの書の中からおのおのがその糧を得ることができるように、聖なる教会の掟から話を始めましょう。
 私たちが、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして神を愛し、また、私たち自身をしかるべく、そして、私たちの隣人を自分と同じように愛することを神は、お命じになっています。
〔 マタイ22:37〜39, マルコ12:30〜31, ルカ10:17 〕

 心を尽くして神を愛するというのは、私たちの思いが、常に本当に神のうちになければならないということです。魂を尽くしてというのは、命に代えてでも真理しか語ってはならないということです。力を尽くしてというのは、私たちの業は、すべてただ神のためにのみなされなければならないということです。」

( 一瞬たりとも心を神からそらして、被造物に心を奪われるようなら、この掟を守ったとはいえません。
 真理以外の冗談やジョーク、ウソやブラックジョークは、もっての他です。悪ふざけで人をけなすことは、すでにこの掟を破っています。
 少しでも、ギブアンドテイクや、見返りを求めた行動は、この掟に逆らっています。
 まして、神のためにではなく、愛する恋人のために、好きな人のために、自分が注目され、良く思われたいがためにする行いは、全てこの掟を破っています。
 このたった二つの愛の掟は、簡単そうで全く凡人の努力では、到底不可能な掟なのです。聖人のみが、可能となる境地、到達する愛の領域なのです。では、なぜ、凡人の人間にこのようなとうてい実践することのできない掟を神は、要求するのでしょうか? )

 愛は、言います、

 「私たち自身をしかるべくというのは、行動に起こすとき、私たちの利益ではなく、神の完全な意志を見なければならないということです。
 私たちの隣人を自分と同じようにというのは、自分に対して、そうしてほしくはないことを、隣人に対して行なったり、考えたり、言ったりしてはならず、かえって、自分にして欲しいことを隣人にするということです。」

( しかし、自分がして欲しいからと言って、相手もして欲しいとは、限りません。 また、お互いが、欲っしていても、それが、神の御目から見て罪なら、行ってはならないのです。 同性愛者たちや近親間の姦淫は、この掟を破っています。
 また、隣人に対して、自分にして欲しくない事を考えてしまう人の方が、圧倒的に多いはずです。 それで、この掟を守ることは、到底無理なのです。 )

 愛は、言います、

 「ある若者が、
  『 これらの淀を幼い頃から守ってきた。 』
 と、イエズス・キリストに語りました。ここでイエズスの答えに注目して下さい。
 イエズス・キリストは、彼に答えます、
  『 完全でありたいと思うなら、あなたに足りないことが一つある。 帰って、持っているものを皆売り払い、貧しい人々に施し、そして、私について来なさい。そうすれば、天に宝を持つようになるだろう。 』 
 〔 マテオ19:10〜21, マルコ10:20〜21, ルカ18:21〜22 〕
 これが、徳の全き完成への助言であり、この助言を遵守する者は、真の慈愛のうちにとどまるでしょう。」

 ( たとえ、財産を持っていなくても、既に持っているその他の資産や家柄、家族や肩書きなど全て捨てさらなければなりません。心の金持ちは、心にある全ての財産を手放なさなければなりません。 情欲、食欲、金銭欲、名誉欲、権力欲、知識欲などは、捨て去らなければなりません。 つまり、赤貧になること、空しく貧しくなることは、並大抵のことではないのです。 神を愛するあまり、神からのものをあてにすることさえありません。 )



第四章 慈愛の高貴な徳について、なぜ慈愛は、愛以外のものには従わないのか。


 愛は、言います、

 「慈愛は、被造物には従わず、愛のみに従います。
 慈愛は、私有物をまったく所有せず、仮に何か持っていても、それが、自分のものだとは、言いません。
 慈愛は、自分の用事は、構わず、他の人の用事をしに行きます。
 慈愛は、いかなる善行を施そうと、またいかなる喜びを与えようと、誰にも報酬を求めることはありません。
 慈愛は、恥辱も、恐怖も、不安ももちません。 真直ぐ立ち、何が起ころうと、なえたり、たわむことは、ありえません。
 慈愛は、日の下にある何ものにも目をくれません。 全世界は、慈愛の残り物、おこぼれでしかないのです。
 慈愛は、神からのものをすべての人々に与え、自分自身をさえ惜しみません。 しかも、与えれば与えるほど神から受けることを知っているため、持ち前のこの上ない気前の良さから、神のものを約束することもしばしばあるのです。
 慈愛は、商売が上手で、他の人々が、損をするいたるところで儲け、他の人々が、つかまり縛られる縄目を逃れます。
 このようにして慈愛には、愛を喜ばすものが、実にたくさんあるのです。」

 完全な慈愛をもつ者は、慈愛の業によって霊の命を生きる思慕のうちに恋焦がれる ( 焼き尽くされる ) ことに注意して下さい  [ 汽灰螢鵐13:4〜7参照 ] 。



第五章 空しくされた霊の命に生きる慈愛の平和と呼ばれる魂について。


 ( 生= 「 霊の命に生きる 」 と、訳したのは、生には、肉体の生 と 霊の生の二つがあり、この場合の生は、霊の生であり、この生は、キリスト教の洗礼によって、はじめて受ける「生」のため、信仰していない人間には、「霊の生」 はなく、既に死んでいます。 ただ、「肉体の生」 のみです。 このことは、キリスト教用語として「再生」とか、「ボーンアゲイン」とか、言われています。霊的体験の恵みを受ける人もいますが、例外なく、洗礼と共に霊の再生は、起こるため、ただ、信仰によって生きればよいのです。 洗礼の水は、霊界の「神」の霊との媒介となります。 こうして、霊によって命が生まれ、祈りによって、神と再び会話することが、できるようになります。)

 愛は、言います、

 「ところで、もうひとつの別の霊の命に生きる方法があり、私たちは、それを空しくされた霊の命に生きる慈愛の平和と呼んでいます。」

 「この生き方について、その魂が、見出されうるかどうか尋ねながら、私たちは、語りたいと思うのです。 すなわち、

 1.この魂とは、
 2.業を行わず信仰によって救われ、 ( この地上に生きている限り “ 信仰 ” が必要 )
 3.ただ愛のうちにあり、
 4.神のために何もせず、 ( ひたすら神に注視して他に何にもできない )
 5.神のために何も放棄せず、 ( 愛と希望と信仰しか持っていない )
 6.何も教えられることはありえず、 ( 何にも知りたいとは、欲せず )
 7.何も奪われることも、  ( 何にも持っていないので )
 8.何も与えられることもありえない、 ( 何にも得たいとは、欲せず )
 9.そして、まったく意志をもたないような魂なのです。 ( 神に意志を奉献した魂 )


  」 愛は、言います、

 「ああ、この魂に不足しているものをいったい誰が与えられるでしょうか。
 かつても、これからも、与えられることはないでしよう。」

 愛は、言います、

 「この魂には、熾天使のように六枚の翼があります。
 これは、熾天使の愛と神の愛とのあいだには、いかなる仲介もありません。
 熾天使は、常に仲介を通さず知らせを受け取ります。
 同じように、この魂も仲介なくダイレクトに受け取ります。
 なぜなら、この魂は、現世の教師たちのあいだに学識を求めるのではなく、現世と自分自身をへりくだらせ蔑視のうちに神の学識を探し求めるからです。
 ああ、神よ、恋人から恋人へ宅配人の手を借りて渡された贈り物と、
 恋人から恋人へ手ずから渡された贈り物との違いは、どれほど大きいことでしょう。」

 愛は、言います、

 「この魂は、 “ 六枚の翼をもっている ” と、語っているのは、真実です。

 二枚の翼でわれらの主イエズス・キリストからその顔を覆います。
 これは、神の善についての知識が、増えれば増えるほど、イエズス・キリストの善のひと雫に比べれば、この魂は、善の知識について何も知らないということをよりいっそう完全に知るということなのです。
 キリストは、キリストによってしか、把握されないからです。」

 ( 神の無限性は、神によってしか計り知れないのです。 同じく、聖と善の根源である神を知ることは、到底人間には、できないのです。 )

 愛は、言います、

 「別の二枚の翼で足を覆います。
 これは、私たちのためにイエズス・キリストが引き受けた受難についての知識が、ひとつひとつ増えれば増えるほど、私たちのためにキリストが、引き受けたすべての受難と比べれば、この魂は、キリストの受難については、何も知らないということをよりいっそう完全に知るということなのです。
 キリストは、キリストによってしか知られないからです。

 別の二枚の翼で空を飛び、立ったり坐ったりしています。
 これは、神の善についてこの魂が、知り、愛し、讃えることすべてが、空を飛ぶことなのです。立っているというのは、この魂は、常に神のまなざしの下にあるからです。
 坐っているというのは、常に神の意志のうちにあるからです。

 ああ、この魂は、神以外の何ものをも、恐れることがありません。
 何の恐れも心配も忘れさり、また、思い出すことさえないでしよう。
 仮に、この魂が、現世にあり、世界と肉と悪魔と天変地異と空飛ぶ鳥と獣によってさいなまれ、ずたずたにされ、むさぼり食われたとしても、神が、内にとどまるなら、この魂は、何も失わないのです。

 なぜなら、神は、全き遍在者であり、全能、全知、全き善だからです。
 私たちの父であり、兄弟であり、誠実な恋人です。
 始まりはなく、終わりもない、神自身によってしか把握されえません。三つの位格であり、唯一の神なのです。」

 魂は、言います、

 「これが、私たちの恋人なのです。」



第六章 慈愛の平和のうちに暮らすこの魂は、どうして諸徳にいとまごいをするのか。


 愛は、言います、

 「こうした愛によってこの魂は、諸徳に、
 『 自分は、長いあいだ、多くの日々あなたにお仕えしてまいりました。 』
 と、言うことができます。」

 魂は、言います、

 「愛よ、この私は、告白いたします。
 彼らにお仕えしていた時もありましたが、あなたのクルトワジーが、彼らにお仕えする私を解放しました。
 ですから、いまや彼らに次のように述べ、歌うことができます。
 『 諸徳よ、あなたがたに永遠にいとまごいをします。
 私の心は、もっと自由に、もっと陽気になるでしょう。
 あなたがたへの奉仕は、犠牲が大きすぎます、私にはよくわかっているのです。
 長いあいだ、私の心をあなたがたに委ね、少しも離れることは、ありませんでした。
 私が、すっかり身を任せていたことは、あなたがたもご存じです。
 私は、あなたがたのしもべでしたが、今は、晴れて自由の身です。
 私の心をすっかりあなたがたに委ねていたと自分では、よくわかっているのです。
 このため、長いあいだ、非常に不安な思いで暮らしました。
 いくつもの深い苦悩を忍び、幾千もの痛みに耐えました。
 どうして乗り越えられたのか、生きているのが、不思議なくらいです。
 でも、こうしている今では、どうでもよいことです。
 私は、あなたがたからひとりだちしました。
 このことを天の神に感謝します。良い日が訪れました。
 私は、あなたがたの支配から逃れました。
 あの支配の中で幾万もの苦しみに耐え忍びました。
 あなたがたと別れない限り、私はいつも不自由でいたでしょう。
 あなたがたの支配を逃れ、私は平和のうちに安らいでいます。 』 」



 
第七章 いかにしてこの魂は、高貴なのか、また、何ものをも執着しないのか。


 愛は、言います、

 「この魂は、恥辱も、名誉も、貧困も、富も、安楽も、不安も、愛も、憎しみも、地獄も、天国にも執着しません。」

 理性は、言います、

 「ああ、愛よ、あなたはいったい何を言おうとしているのですか。」

 愛は、言います、

 「何を言おうとしているのでしょうか。 それは、神からその理解を授けられた者だけが知っています。
 聖書は、記していません、
 人間の五つの感覚では、把握できません、
 なぜなら、被造物の努力では、とうてい理解することも把握することもできないのです。
 この賜物は、至高者から授けられる恩寵であり、その中に、被造物であるこの魂は、あり余る知識によって引き上げられ、自分自身の持っている理解の範ちゅうにこの知識を収めることはできず、超えているため、何も言葉に記されず、何も残っていないのです。
 こうして、この魂は、無となり、すべてを持ちながら何も持たず、すべてを欲しながら何も欲せず、すべてを知りながら何も知らないのです。」

 理性は、言います、

 「愛よ、
  『 この魂はまったく意志をもたない 』
 と、この書は、先に述べていましたが、 ≪それならば≫ いったいどうして、この魂は、この書が述べる目的のものを欲しうるということがありうるのでしょうか。」

 愛は、言います、

 「理性よ、それを欲するのは、この魂の意志ではなく、神の意志が、この書の述べる目的のものを魂のうちで欲するのです。
 愛のうちにこの魂が、とどまり、愛が、魂になんらかの欲望によってそれを欲せしめるというのではないからです。
 かえって、愛が、魂のうちにとどまり、魂の意志を奪い去り、そのようにして、愛は、魂を神の意志に従わせるのです。
 したがって、愛は、魂のうちで、魂の意志なしに働き、それゆえ、魂のうちにとどまりうるいかなる不安もないのです。
 なぜなら、完全な愛の充満は、恐れをしりません。
 この魂は、もはや、神について語ることはできません。そのすべての外的欲望に関して、内面の感情に関して、霊の情動に関して、空しくされているからです。
 そうして、この魂は、自分がなすことを正しい慣習に倣って、あるいは、聖なる教会の掟に従い、何の欲望もなく自然に行うのです。
 なぜなら、この魂にあずかる欲望の意志は、死んでしまったのです。」



第八章 どうして理性は、この魂が、諸徳を見限った
ことに驚くのか、また、愛は、諸徳を讃えるのか。


 理性は、言います、

 「ああ、神よ、粗野な事柄しか理解せず、繊細な事柄をなおざりにしますが、これは、なんと不思議なことでしょう。この魂は、恩寵の感覚や霊的欲望をまったくもっていないのです。あらゆる魂に正しく生きる道を教えてくれる諸徳にいとま乞いをしてしまったのですから。
 諸徳なしには、誰も自らを救うことも永遠の命の完成に至ることもできません。
 一方、諸徳に恵まれる者が、欺かれると言うことは、ありえないのですが、この魂は、いとま乞いをしてしまいました。 このように語るこの魂は、無分別ではないでしょうか。」

 愛は、言います、

 「とんでもありません。
  なぜなら、このような魂は、他のいかなる被造物よりも諸徳に恵まれているのです。しかし、諸徳を必要としていません。
 なぜなら、昔とは違ってこのような魂は、諸徳のものではないのです。 十分、彼らにお仕えしてきたのでいまや自由の身の上となったのです。」

 愛は、言います、

 「ああ、理性よ、間違いなく、このようにして解放された魂は、支配が何をなすことを常としているのか多くの日々見てきたのです。
 こうした魂に、
 『 被造物が、経験しうる最大の苦しみは何か? 』
 と、質問してみれば、
 『 愛のうちにとどまり、諸徳に服従することです 』
 と、答えるでしよう。
 たとえ、自然をどれほど犠牲にしても、諸徳の要求には、すべて応えなければならないからです。
 実際、諸徳は、名誉も、財産も、心も、体も、命も、要求します。
 これは、こうした魂は、 ≪すべてのものを捨てる≫ ということを意味しますが、それでもなお、諸徳は、一切を与え、自然を励ますような何ものも手元に残しておかなかったこの魂に、
 『 かろうじて義人は、救われる (汽撻肇4:18) 』
 と、言うのです。
 そのため、いまだに諸徳に仕えている哀れな魂は、もし、最後になって救われることが、決まっているのなら恐怖に襲われ、
 『 審判の日まで地獄で責め苛まれるほうがましです 』
 と言うのです。」

 愛は言います、

 「これは、真実です。 諸徳が、力をふるう魂は、このような支配 (律法に似ています) の下に暮らしています。 しかし、今、お話ししている魂は、諸徳をあるべき所に置きました。
 こうした魂は、諸徳のためには、何もせず、かえって、こうした魂の欲する一切を諸徳が、支配することも異論を唱えることもなく行うからです。
 なぜなら、こうした魂は、諸徳の主人なのです。」



第九章 どうしてこうした魂は、まったく意志をもたないのか。


 愛、

 「このような強固さと平和、そして、自由な魂に、
  『 煉獄にいたいのですか 』 と、問えば、 『 いいえ 』
  と、答えましょう。
  『 現世において己れの救済の確信を得たいのですか 』 と、問えば、 『 いいえ 』
  と、答えましょう。また、
  『 天国にいたいのですか 』 と、問えば、 『 いいえ 』
  と、答えましょう。

  では、こうした魂は、いったい何を欲するのでしようか。
  何も欲しないのです。まったく意志をもたないのです。
  何か、欲することがあれば、こうした魂は、愛から離れてしまうでしょう。
  このような魂にとって何が有益なのかは、魂の意志を所有する御方が知っており、それを知らなくても、また、保証がなくても、魂には、十分だからです。
  こうした魂は、知識と愛と讃美を糧に生きており、それが、こうした魂の習慣的営みであって、自ら活動することはありません。
 知識と愛と称讃が、その魂のうちにとどまっているからです。こうした魂は、自分が、善いか悪いかを知りえず、自分自身についての知識は、まったくもたず、自分が、善心に立ち返っているのか邪悪の道に陥っているのか、判断できないでしょう。」

 愛は、言います、

 「あるいは、もっと簡単にお話しすることもできます。
 たとえば、貧困も、苦難も、ミサも、説教も、断食も、祈りも、求めることも、また、ないがしろにすることもなく、自然にとって必要なものはすべて、良心の阿責もなく、自然に与えるような魂を取り上げてみましよう。 しかし、このような自然は、この魂の意志が、結合した愛の一致による変容を通して正しく律せられ、禁じられているようなことは、要求しないのです。
 こうした魂は、必要なときを除いて、自分に必要なもののことを思い煩うことは、ありません。 そして、罪を知らない人を除いて、何人もこの思い煩いなしにすますことはできません。」

 理性は、言います、

 「ああ、いったい何を言おうとしているのでしようか。」

 愛は、言います、

 「理性よ、私はこう答えます、すでに述べたように、そして、もう一度言いますが、いかなる自然の感覚の教師も、聖書の教師も、また、諸徳への服従の愛のうちにとどまる者も、このことをしかるべく理解することはないでしょう。
 理性よ、疑ってはなりません。
 慈愛を求める者以外、誰もこうした魂の言葉を理解することはできないと思います。
 この賜物は、ときとして、一瞬のうちに授けられますが、それを授けられた者は、大切にしなければなりません。
 神が被造物に授ける最も完全な賜物だからです。
 この魂は、神性の励ましを受け、謙遜の谷と真理の平野に座り、愛の山に憩います。」



第十章 理性の求めに応じ、活動的な人々のために、
愛は、この魂をどうして、12の名前で呼ぶのか。


 理性は、言います、

 「ああ、愛よ、この魂をその正しい名前で呼んで、活動的な人々に、この魂について多少なりともお教え下さい。」

 愛は、言います、

 「この魂は、12の名前で呼ぶことができます。すなわち、
 実に驚くべきもの。
 未知なるもの。
 エルサレムの娘たち(雅歌1:5,2:7,3:5など)のなかで最も罪を知らないもの。
 聖なる教会全体が、そこに礎(いしずえ)を置くもの。
 知識に照らされたもの。
 愛に飾られたもの。
 讃美に生きるもの。
 謙遜によってあらゆることにおいて空しくされたもの。
 神の意志によって神のうちに安らかであるもの。
 神の意志以外、何も欲しないもの。
 三位一体の業により、神の善意に何も欠けることなく満ち足り充ち溢(あふ)れたもの。
 忘却。
 これら12の名前を愛は、この魂に与えています。」

 純粋なクルトワジーは、言います、

 「確かに、この魂が、こう呼ばれるのは、まったく正しいことです。これが、この魂の正しい名前ですから。」

 理性は、言います、

 「ああ、愛よ、あなたはこの魂を多くの名前で呼びましたが、そのおかげで、活動的な魂は、多少なりとも知識を得ることができます、たとえ、あなたが、挙げた高貴な名前を聞くことによってでしか他に知る方法がないとしてでもです。」



第十一章 理性の求めに応じ、どのように愛は観想する人々にこの魂を教えるのか。


 理性は、言います、

 「さて、愛よ、神の知識を深めることを常に望んでおり、愛への激しい飢え渇きと望みのうちにあり、観想に浸る人々に代わって懇願いたします。
 あなたがすでにお話しになった9点についてどうか、解説していただけないでしょうか。
 洗練された愛を求め、純粋な愛によってこの生命の中に魂は、打ち捨てられている状態の空しくされた生命を通して慈愛がそのうちにとどまり、座っているこの魂が、所有する9点についてです。」

 愛は、応えます、

 「理性よ、名前を挙げてみなさい。」

 理性は、愛に言います、

 「あなたがお話しになった第1点は、
  ≪ このような魂を見出すことはできない ≫
  と、言うことです。」

 愛は、応えます、

 「それは本当です。
 つまり、この魂は、自分自身のうちにたった一つのこと、あらゆる悪の根と、数えることも重さや大きさを測ることもできないあらゆる罪の膨大さしか認められないのです。
 そして、罪は、存在する価値のない無であり、無にも達しえない自分の恐るべき過ちにすっかり圧倒され怯えています。
 このように理解すれば、この魂は、自分自身によって存在する限りにおいては、無以下なのです。
 したがって、
 ≪この魂を見出すことはできない≫
 と、結論することができます。
 なぜなら、この魂は、謙遜によってあまりに空しくされ、たとえ神が、その過ちの一つの千分の一に懲罰を加えようとしてさえも、この魂が、正しく判断するところによれば、かつて罪を犯したいかなる被造物をもこの魂ほどには大きな苦しみや無限の狼狽に値しないからです。まさしく、このような謙遜こそが、空しくされた魂の真の完全な謙遜なのです。」

 愛は、言います

 「第2点は、
 ≪ この魂は、業を行わず、信仰によって救われる ≫
 と、言うことです。」

 理性は、言います、

 「ああ、いったいこれは、どういう意味なのでしようか。」

 愛は、応えます、

 「これは、このように空しくされた魂は、信仰の徳により自らのうちに非常に大きな知識を得て信仰が授ける、

  『 父の力、子の知恵、聖霊の善 』

 を保つことに心を奪われ創造されたものは、この空しくされた魂の知性を取り巻く別の懸念のために瞬時に過ぎ去って、記憶の中には、とどまりえないということです。
 この魂は、もはや業を行うことを知りません。
 また、確かに業を行わずとも神は、善であり把握しがたくともこの魂が、信じることは、十分許され、正当化されます。この魂は、業を行わず信仰によって救われます。愛自身の証言により、信仰は、あらゆる業を凌駕するからです (ルカ10:38〜42,ロマ3:28) 。」

 愛は、言います、

 「第3点は、この魂は、独り愛のうちにいるということです。」

 理性は、言います、

 「ああ、愛よ、いったいこれは、どういう意味なのでしようか。」

 愛は、応えます、

 「これは、この魂は、ただ神の善を除いて、神が創造した被造物にも、天にも、地にも、励ましも、愛着も、希望も、もたないということです。 この魂は、被造物に何の物乞いも要求もしません。 ただ一羽でいる不死鳥です。 この魂は、独り愛のうちにとどまり、自分の置かれている状況が、天国にいるのと同じく充分満足しているからです。 したがって、希望することは、何もないのです。」

 愛は、言います、

 「第4点は、この魂は、神のために何もしないということです。」

 理性は、言います、

 「ああ、いったいこれは、どういう意味なのでしようか。」

 愛は、応えます、

 「これは、神にとっては、己れの業は、どうでもよく、この魂にとっては、神が行おうとする業以外どうでもよいということです。
 この魂は、神にとってこそ大切であり、神は、誰よりももっともこの魂を愛しています。この魂は、神を全く信頼しきっており、自分の恋人が、豊かである限り、自分の貧しさは、まったく恐れません。
 自分に与えられた信仰に見合って神からの信仰が、この魂に教えているからであり、神が、完全に豊かであることをこの魂は、信仰によって知っているのですから、この魂にとって貧しいということは、ありえないのです。」

 愛は、言います、

 「第5点は、この魂は、自分ができることを神のために放棄することがまったくないということです。」

 理性は、言います、

 「ああ、愛よ、いったいこれは、どういう意味なのでしようか。」

 愛は応えます、

 「これは、この魂は、神の行う意志以外、何も行うことができないということです。また、この魂は、他のもの事を何も欲することができない。 したがって、神のために何も放棄しないということです。この魂は、神に反するあらゆるものを想起することを自分に許しません。 したがって、神のために何も放棄しないことになるのです。」


 愛は、言います、

 「第6点は、この魂に何も教えることは、できないということです。」

 理性は、言います、

 「ああ、いったいこれは、どういう意味なのでしようか。」

 愛は応えます、

 「この魂は、非常に堅固不動のため、かつて存在し、今存在し、今後存在するすべての被造物における全宇宙の法則と全知識をこの魂が、手に入れたとしてもそれは、この魂にとっては、かつても、今後も、けっして知られることのないこの魂が、愛する状態に比べれば、無のような存在に思われることでしょう。
 仮に、この魂が、今までと、今後存在する全被造物が、もつだろう全宇宙の知識を得たとします。そのときに得られるあらゆるものを愛するよりも、自分が、今、存在している状態を愛することと、神のうちにいることをいっそう愛しているのです。
 これは、かつて与えられたことはなく、今後も与えられることのないものです。」

 魂は、言います、

 「しかも、それが、現にあるところの天国に比べれば、地上に生存している間の神の愛の内にいることは、何でもありません。しかし、それについては、何も語ることはできません。」

 ( 天国では、永遠に愛のうちに留まりますが、それに比べたら地上において生存している間に浸る神の愛の中は、一瞬の出来事ですから、何でもないのです。 )

 愛は、言います、

 「第7点は、この魂から何も奪いえないということです。」

 理性は、言います、

 「ああ、愛よ、いったいこれは、どういう意味なのでしょうか。」

 愛は、言います、

 「どういう意味でしょうか。この魂から何を奪うことができるでしょうか。 確かに、何も奪うことはできないでしょう。
 なぜなら、この魂から名誉や富や友人,心や体や命を奪っても、神がとどまり続けるならば、何も奪うことは、できないのです。したがって、どれほど力があっても、この魂から何も奪えないことは、明らかです。」

 愛は、言います、

 「第8点は、この魂に何も与えることは、できないということです。」

 理性は、言います、

 「愛よ、何も与えることができないというのは、いったいどういう意味なのでしょうか。」

 愛は、応えます、

 「どういう意味でしょうか。この魂に何を与えることができるでしょうか。この魂に、かつて与えられた、そして、今後与えられるすべてを与えても、それは、何でもないでしょう。
 それは、この魂が、今愛し、そして、今後、愛するであろうものに比べればのことです。」

 そのとき、魂は、言います、

 「 愛よ、神ご自身が、今、私のうちで愛し、今後、愛するであろうものに比べれば、というべきです。」

 愛は、応えます、

 「失礼ですが、それは、私ではありません。」

 愛は、聴衆のために言います、

 「私たちは、神は、この魂のより低い部分よりも、むしろ、神ご自身のうちにあるこの魂の最も高い部分を愛していると言いましょう。」

 しかし、この魂は、言います、

 「より低い部分は、存在しません、まるごとすべて以外にありません。 このことは、断言できます。そして、真実です。」

 (この地上で生命を営む憐れな罪人を神は、愛しておられるのです。)

 愛は、言います、

 「さらに言えば、聖三位一体によってかつて与えられ、そして、今後、与えられる全知識、全能力、全善をこの魂が、すべて残らず得たとしても、知識によってこの愛に到達することは、けっしてないでしょう。
 この魂が、今、愛し、今後、愛するだろう愛と比べたら何でもないでしょう。」

 魂は、愛に話します、
 「ああ、優しい愛よ、間違いなくこの愛に到達することは、けっしてありません。」

 魂は、言います、

 「私の愛のいと小さきひと雫に関してでさえそうです。
  なぜなら、神は、完全に何も知ることのできない存在者なのです。
 実際、それについて一言も語ることのできない存在です。そして、天国のすべての住人でさえ、たとえ、どれほど知識があろうとそのひとカケラさえも捉えることのできない存在であられるのが私の神なのです。
 そして、この至高の頂きには、私の霊の愛による自己否定,自己犠牲 (self-sacrifice) が含まれております。
 これが、現在もまた、永遠に栄えある私の魂の愛のすべてであります。
 そして、例外なくかつて己れを理解した人たちの栄光のすべてなのです。」

 魂は、言います、

 「それについて誰も語ることのない最大のものに比べれば、 この一片は、小さなものに聞こえます。それについて語りたくても何ひとつ語れないのです。
 それでも愛よ、私の愛の判定基準に従えば、あなたについて良く言う人が、いないより、かえって、あなたについての悪口を聞く方が、ふさわしく思われます。
 そして、これこそ、間違いなく私が、今していることなのです。私は、あなたの悪口を言います。なぜなら、私が、あなたについて何を言おうとそれは、あなたの善をけなすことに他ならないのです。 しかし、私の悪口は、あなたから許していただかなければなりません。
 なぜなら、たえず、あなたについて話しながらあなたの善について何も触れない者は、確かにあなたをけなしているのです。私自身についても同じことです。
 あるいは、人に問いかけ、あるいは、心の中で、私は、絶えずあなたについて語り続け、また人が、あなたの善について何か、私に語ってくれないかと、耳をそばだててきました。
 しかし、あなたについての話を聞けば、聞くほど、びっくりしてしまいます。なぜなら、それについて何か、私に信じさせようとするならば、考えてみただけで下賎なことでしょう。そのように考えている人々は、欺かれているのです。
 その理由は、それについては、何も語ることができない、ということを私は、確かに知っているのです。神の思し召しに適うならば、私は、決してそのことについて欺かれることはないでしょう。
 私が、欲しているのは、あなたの神的善について偽りを聞くことでは、けっしてなく、この書のご計画を成し遂げることです。
 この書の教師は、愛であり、愛は、私に他のすべての計画を脇に置いて終えるように言われました。
 なぜなら、私自身から愛そのもののために何かを求めている限り、私は、陽光を浴びながら、霊的生命のうちにある自分と共にいることになるでしょう。
 そこでは、神の愛と神の生成の魅力の微妙な様相を見ることはできません。

 いったい私は、何を言っているのでしょうか。

 仮に今述べたすべてを私が得ることができたとしても、私が、その御者を愛している事に比べれば、確かにやはり何でもないのです。
 その御者は、愛の生成を御自身以外の誰にも与えないでしょうし、神の正義のために手元にとどめておかなければならないのです。
 それゆえ、
 ≪どのようなものであれ、人は、私に何も与えることはできない≫
 と、私が述べたことは、真実なのです。」

 魂は、言います、
 「今お聞きの通り、私が、嘆いているこの悲嘆は、理性よ、正しく理解すべき私のすべてであり、最良のものなのです。ああ、なんと甘美な理解でしょうか。どうか、完全に理解していただきたい。なぜなら、天国とは、まさにこのことを理解することをおいてほかにないのです。」

 (「右の手でしていることを左の手にさえも知らせぬようにせよ。それはあなたの施しを隠すためである。 そうすれば隠されたことを見られる御父が、報いてくだされる。(マテオ聖福音)」
 と、書かれているように神ご自身が、創られた愛の掟をみずから破ることはないのですから、愛の売名行為などは、決してありません。
 『 神ご自身が成された愛による善は、人には知らされません。 』
 神の愛は、神秘であり、測り知れません。 地の人々に話すことは、神ご自身は、許さないでしょう。
 神からの絶え間ない溢れるばかりの愛は、天から降り注がれ、人に与えられます。
 そして、ほんのわずかだけ人に留まります。人は、ただ、その一部を用いて隣人や家族、自分自身を愛し、また、そのわずか一部分で神を愛するために受けてた愛をお返しするだけなのです。
 人間の内側から独自に慈愛が、湧き上がることなどないのです。すべて、神の生ける愛の泉から流れ出てきます。)

 愛は、言います、

 「第九点は、理性よ、この魂は、まったく意志をもたないということです。」

 理性は、言います、

 「ああ、愛の神にかけて、何を言おうとしているのでしようか。この魂は、まったく意志をもたないということなのでしょうか。」

 愛は、応えます、

 「ああ、まさにその通りです。この魂が、同意しながら欲っするすべてのものは、神が欲っしているものです。
 この魂は、神の意志を実現するためにそれを欲っするのです。 自分自身の意志によるのではありません。この魂が、みずから、それを欲っすることなどありえません。神の意欲が、それをこの魂のうちで欲っするのです。
 したがって、この魂には、すべて神の意志なくしては、明らかに意志をまったく持たないということです。」



第十二章 空しくされた魂は、まったく意志をもたないということの真の理解


 愛

 「さて、聴衆の方々、この書が、多くの個所で述べていることの真の理解について耳を傾け正しく理解していただきたいと願います。
 すなわち、空しくされた魂は、まったく意志をもたず、もちえず、もつことを欲することもありえないということにおいて神の意志が、完全に成就するということです。
 魂は、神の中に、神は、魂の中に安らかであると言えるとき、初めて魂は、全き充足を得るということです。」

 理性の理解は、言います、

 「なるほど、しかし、第9点は、まったく正反対のことを述べているように思われます。
 それによれば、空しくされた魂は、この魂が、意欲することを何も欲しないのであり、意欲をもちえないからです。
 なぜなら、神は、このような意欲は、けっしてこの魂に与えられることはないでしょう。」

 理性は、言います、

 「この点について私が、理解するところによれば、この魂は、意欲するけれども意欲をもちえないのですから、充足は、まったくもちえないのです。」

 理性の理解は、言います、

 「愛よ、第9点からは、このように理解されるのですが、この書の矛盾点、否定しているように思われます。この書が、真実だとするところに従えば、空しくされた魂は、まったく意志をもたず、もちえず、欲しえません。
 また、神の一性は、この魂が、意志をもつことを欲しません。この書によれば、あらゆることにおいて、神の愛により完全なる充足を得ると言うのです。それは、どうしてですか。」

 空しくされた魂は、言います、

 「ああ、理性の理解よ、なんとあなたは、明敏な方でしょう。
 それでも稲穂を拾ってその実を捨てています。
 あなたの理解は、あまりに浅いのです。ふさわしく、深く理解することが、できていません。空しくされ、解放された魂のうちにとどまり、存在している神の愛の理解は、造作もなく正しく理解します。」

 愛の至高の理解は、言います、

 「理性の理解よ、いまやあなたの無理解、的外れの勘違いを理解して下さい。
 この空しくされた魂が、意欲するのは、神のご意志を欲することです。
 この魂は、神のご意志を欲すれば欲するほど、
 さらにそれを欲しようとすることになりましょう。
 たとえ、欲しても、この魂は、被造物の卑小さの理由からそれを得ることはできません。
 なぜなら、神が、ご自身の正義の偉大さを確保しているからです。
 しかし、神は、この魂のような意欲をもつことを欲しております。
 それが、神の意欲であります。
 神の意欲が、自由な被造物に存在を与えるのです。
 神の意欲が、この魂のうちに神の知識の血脈,神の愛の骨髄,神の讃美の一致を引き入れます。
 しかし、魂の意志は、そうしたものを遮断してしまうのです。」

 愛は、言います、

 「ですから、この魂が、意欲をもちうるなどとどうして言えましょうか?
 この魂は、神の意志を欲すれば、
 神の意欲が、空しいこの魂の意欲となってさらに欲するようになり、
 どんどん増大していきます。
 この魂の意志は、遂に無に等しくなるほど減少していきます。
 そして、ついに神の意欲が、この魂全体に充満します。
 この魂には、神のご意志だけとなります。

 明晰な知識は、何も意欲しないことによってしか被造物がもちえないたぐい稀なあり方、最も高貴なあり方が実在することを知っています。

 いまや理性は、残る一つの質問を除いて、他の質問に対する答えを聞きました。
 残されたただ、一つの質問、

 “解放された魂は、充足を欠く”

 と述べられたことについてどのような点でこの魂が、充足を欠くのかお話ししましょう。
 それは、神の意欲を欲するということです。
 神の意欲は、それを欲すれば、欲するほど、そのように欲することによって充足が減少してしまいます。
 しかし、まさにこの意欲こそが、神の唯一の意欲なのであり、魂の栄光なのです。」



第十三章 理性は、観想的な人々 活動的な人々 普通の人々 のためにさらに尋ねる。


 理性は、言います、

 「さらに普通の人々のために、彼らには、理解しがたい二重の意味にとられる言葉がいくつもあり、もしあなたが説明して下されば、この書は、すべての人々に真の真理の光と慈愛の完成を示すことになります。
 そして、彼らも神から大切に選ばれ、呼ばれて招かれ、この上なく愛されている人々なのです。」

 愛は、言います、

 「二重の意味にとれる言葉は、いったいどこにあるのでしょうか。
 あなたが、そのようにへりくだって懇願するのは、この書の聴衆のために説明することを私に求めていらっしゃいます。
 人々の利益のために私たちが、この書に、

 『 意欲と欲望のうちにとどまる単純な魂の鏡 』

 と、名づけようと思います。」

 
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